灰の森通信

二三川練の感想ブログ

寺山修司というREGGAE~短歌HIPHOP説に対抗して~

 「短歌はラップと似ている」といった話を聞くたびになんとなく面白くない気持ちになる。二者の共通点として挙げられる韻や即興性のような要素は何もHIPHOPに限ったものではなく、「なんだ、それならREGGAEも同じじゃないか」と、HIPHOPよりもREGGAEに熱中した身としては思いたくもなるのである。

 ということで「短歌とREGGAE」について考えていたのだが、じっくり考えてみるとやはり短歌はREGGAEよりはHIPHOPの方が近いだろうという結論になる(その過程については省略する)ため、「ああ、やっぱり『短歌はラップと似ている』でいいか」と納得するわけである。

 ところがここで話は終わらない。寺山修司研究者としてはやはりここで「では寺山修司HIPHOPなのかREGGAEなのか」という問いが生まれてしまうわけで、寺山は歌人なのだからそれはHIPHOPで決まりだろうと思いきや、驚いたことに寺山修司はREGGAEなのである。これについて考えてみると、なぜ寺山修司が今でも未解明なのか、なぜ寺山修司の遺した火を継ごうとする歌人がいないのかが見えてくるような気がしてくる。そのため、REGGAEもHIPHOPも多少かじった程度の身であることは申し訳ないが、ここに寺山修司とREGGAEに関するちょっとしたお喋りをしてみようと思う。

 

 HIPHOPとREGGAEという二つのスタイルの違いは、自己引用にあるだろう。特にMCバトルを見ると顕著で、Deejayは自身の楽曲からの引用(いわゆる「ネタ」)が非常に多く、即興を重んじるRapperからその点を指摘されることなどは茶飯事である。REGGAE版のMCバトルと言えるDEEJAY CLASHでは対峙する二人があらかじめ多くのネタを仕込み、実に30分近くのバトルを行うのだ。これは即興性を重んじるHIPHOPの視点からは考えられないことかもしれない。

 この自己引用というスタイルについては以下のMCバトルを見るとわかりやすいだろう。

 

 

 このバトルで使用されたリディムは「Reggaelypso」であり、DeejayであるRAYはこれを使用した「JUMP UP」という楽曲をリリースしている。

 

 

(ちなみに「Reggaelypso」については以下の動画より)

 

 

 REGGAEの自己引用は、その場の文脈において最適な自身のフレーズを選び取るものである。サンプリングはHIPHOPでも盛んな行為だが、引用そのものを作品に昇華するのはREGGAEならではと言えるのではないだろうか。MCバトルに出場するDeejayのなかにはPOWER WAVEやMAKAなど即興性を重んじる者もいるが、CHEHONやRAY、APOLLOなど即興を混ぜながらいかに自己引用で場を盛り上げるかといった者がほとんどであると言っていいだろう。

 そして即興性と自己引用の融合として、2023年渋谷レゲエ祭vs真ADRENALINEにおけるREGGAEルールでのCHEHONのバースは一つの到達点にあろう。

 

 

 このように、自らの言いたいことを主張する際に自己引用を重ねるという手法は、寺山修司が自身の作品で繰り返し行ってきたことと同様である。俳句から短歌へ、短歌から詩や映画へと自己引用を繰り返した寺山修司の文学的本質はそのジャンル横断への野心にある。現在では短詩型創作者が短歌や俳句、川柳といった複数の形式に手を出すといった光景は当たり前だ。しかしその多くがHIPHOP的な即興性こそを重んじており、REGGAEのような自己引用ひいては寺山ほどの横断の意識を持つ者は、ほとんどいないのではないだろうか。

 

 寺山の野心であった横断文学は、「ロミイの代辯」で語られた「現代の連歌」における「新ジャンルの復活」と深く関係している。五七五の俳句に七七を付けることで短歌を創作するという方法論は、検討段階ではあったもののたしかに寺山の根幹をなすものだった。

 そもそもの連歌(現代においては連句の方が主流かもしれない)は複数人が五七五と七七を続けていく文芸であり、僕の連句の先生はこれを「世界で唯一の集団文芸」と語っていた。僕もこれに異論はなく、常に他者の言葉を引用することで様々な世界を描いていくというその性質は短歌連作にも応用されるべきではないかと考えている。

 ところで、集団で一つの作品を作る文芸ジャンルはたしかに連歌連句)しかないだろう。では、音楽ではどうだろうか。ここで以下の動画を見ていただきたい。

 

 

 皆さんにも聞き覚えのあるフレーズが入っていたのではないだろうか。これはRUB A DUB(ラバダブ)というREGGAEの形式であり、一つのリディムのなかでDeejayたちが即興で自身の持ち歌をアレンジしながら繰り出すというものだ。REGGAE版フリースタイルといえばわかりやすいだろうか。

 HIPHOPにおけるサイファーとREGGAEにおけるRUB A DUBは他者の言葉から自身の言葉を紡ぎ、変化を続けていくという点で連句的性質を持つ。両者の違いとして、サイファーが即興性を重んじる一方でRUB A DUBは他者からの引用と自己引用を繰り返す性質を持つ。また個人的には、作品としての完成度はRUB A DUBの方が高いように思う。それらを鑑みると、寺山修司の映画『書を捨てよ町へ出よう』や『田園に死す』、長編叙事詩『地獄篇』などといった多くの作品は、過言を恐れずに言えば、寺山修司によるRUB A DUBであるという見方を否定できない。

 

 現在、歌人による寺山論は膨大である。しかし、横断文学という寺山の野心を見抜きその火を継ごうというほどの意志ある論はほとんど存在しない。その原因について考えていたのだが、僕の仮説としてはやはり「歌人HIPHOPの立場から寺山修司を語るから」というものが有力である。即興性や自己を劇的に演出するという点ではたしかにその立場も間違いないだろうが、それだけでは自己引用の問題から遠のいてしまう。もしあなたが寺山修司について何かを論じようとするならば、今一度REGGAEに立ち返る必要があるだろう。

 

 ところで、REGGAEと寺山修司の共通点はまだある。先に掲載したMCバトルの動画でRAYが歌っていたように、HIPHOPのバトルの主眼は勝敗にあるが、REGGAEはいかにステージと観客を盛り上げたかに主眼が置かれる。DEEJAY CLASHも相手をディスり合うバトルではあるものの、公式で勝敗は決めず「あっちが勝った、いやこっちが勝った」などと観客同士で議論することがその楽しみ方とされている。つまり、REGGAEは観客とともに楽しむという意識がより強いと言えるだろう。

 そして寺山修司が「短歌における『私』の問題」にて岡井隆に指摘した「私の拡散と回収」もまた、読者と一体になって作品を形成する試みであった。この手法は、まず作者が全体的な「私」、その「幻の私像」のイメージを持った上でその「私」の断片を短歌連作のなかで拡散させる。次にそれを読者が回収作業を行うことで全体的な「私」が完成する、というものである。

 この、短歌を全体文学とするための寺山修司の方法論に対し、岡井隆は「短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。」と述べ、作者と読者とを分断してしまった。思えば、短歌がHIPHOPの道を辿ることになった理由は岡井のこの発言にあるのではないだろうか。それはまた、短歌が全体的な「私」――あらゆる「私」を横断する「私」になりえる道を閉ざした原因であるとも言い換えることができる。

 

 僕は何もHIPHOPとREGGAEと優劣を語りたいわけではない。ただ、HIPHOPの道を歩んだ短歌がここでREGGAE的精神へと横断した際に何が生まれるのかを見てみたい。もちろん、現在において拡散された「私」を回収するほどの意志ある読者がどれほどいるのかについてははなはだ疑問ではある。それでも、寺山修司に惹かれた以上は誰かがその火を継がねばなるまい。

 

 寺山修司がスクリーンの向こうから「何してんだよ」と挑発する。RED SPIDERがステージの上から「お前ら葬式来たんか!?」と罵倒する。では、個の時代の果てに「個」すら失いかけている私たちは、紙の上から何をやるというのだろうか。

 

ヘタレの都合知らんがな 弱いもん見つけて威張んなや

やってもないのにひがむなら 買っとけ自分の墓の彼岸花――「顔面蒼白 feat. APOLLO, KENTY GROSS, BES」

 

寺山修司はなぜ川柳を書かなかったのか――寺山文学が後世に遺した全体文学の課題

※本稿は「えこし通信」27号(2023年 えこし会)に寄稿した原稿です。

 

 寺山修司はなぜ川柳を書かなかったのか――寺山文学が後世に遺した全体文学の課題

二三川練

 

 

全体文学に向けての試論

 寺山修司(一九三五―一九八三)が短歌や現代詩、演劇や映画など様々なジャンルで大きな功績を残したのは周知の通りであり、現在に至るまで多くの研究者や識者が寺山についての研究を行っている。筆者自身も横断文学者としての寺山修司の研究を行い、その文学的本質や寺山が試みた全体文学への展望を明らかにした。その過程で筆者が抱いた疑問の一つに、寺山はなぜ川柳にほとんど触れていないのかというものがあった。寺山は短歌創作論の一つに「現代の連歌」を掲げており、句切れを駆使することで俳句から短歌への横断を実践した作家だ。なぜ、連歌への意識を持っていながら寺山は俳句にだけこだわり川柳には手をつけなかったのだろうか。

 筆者はこの疑問について「月報こんとん」五月号収録の「寺山修司はなぜ川柳を書かなかったのか~現代川柳の横断可能性について~」にて論じ、寺山の川柳批判、及び現代川柳の横断可能性について示した。しかしこの論は寺山研究という視点では未だ不完全であったため、本稿にて再び俳句、短歌、川柳の三形式を捉え直すことで全体文学のあるべき姿を問うこととする。

 

 まず、筆者が博士論文「横断文学者寺山修司の試み~俳句と短歌の統合に向けて~」(日本大学大学院芸術学研究科博士論文 二〇二一年三月)にて明らかにした寺山の試みと展望について述べよう。

 寺山は自身の短歌のデビュー作「チェホフ祭」にて俳句から短歌への横断を行った。これは「現代の連歌」「第三人物の設計」「単語構成作法」といった方法論に則ったものであった。また、寺山はこの横断を行うきっかけとして中城ふみ子の短歌の存在を示唆しており、俳句と短歌――具象性と暗示性の接点をこの横断に追求したものと考えられた。

 「チェホフ祭」の次に寺山が試みたのは「私」の拡散と回収による全体文学の実践であった。これは全体的な「私」像を作者がイメージした上でその断片を短歌に散りばめ、読者が回収するという手法であった。寺山の第三歌集『田園に死す』がこの実践である。そしてこの実践と挫折を踏まえて寺山が直面したのが短歌の自己肯定の問題であった。これは短歌がどうしても自己を出発点としてしまうがゆえに、他者を持てないという問題である。これに直面した寺山は「歌のわかれ」を告げ、演劇や映画への横断を行う。

 そして晩年の寺山は再び俳句と短歌への意欲を見せる。これは自らの死に直面したことで生まれた「個人」の問題への意欲であり、内面化の果てにある滅私の「私」への意欲であったと考えられる。その実践としての作品を発表することは一九八三年の寺山の死によって叶わなかったため、滅私の「私」の表現による全体文学の試みが寺山の最後の課題として遺されたのである。

 

 では、続いて全体文学の試みにあたって俳句と短歌が持つ特徴と欠点、そして寺山と川柳の関係及び川柳の特徴と欠点について述べよう。

 

俳句の特徴と欠点について

 寺山が注目したのは俳句の持つ句切れ、そして具象性であった。この句切れを短歌に取り入れることで言葉と言葉が暗喩的関係に置かれ、物語性が生まれる。つまり、物語の説明にならずに具象性と暗示性が両立するのである。

 一方、俳句の持つ欠点はその短さにある。「ロミイの代辯――短詩型へのエチュード」において「ぼくは行為が画かれない即物詩のなかではやはり窒息しそうだし、最近俳壇でとやかくいわれている『もの』の問題にしても、ものの描写が行為を暗示するという線でのみ妥協できるのである」と書かれていたように、寺山は俳句の即物性に暗示性を求めていた。そして、即物性と暗示性の接点として中城ふみ子の短歌に希望を見出したのである。つまり、俳句の短さでは短歌的な物語性を構築することができなかった、というのが寺山が俳句に感じた欠点であると考えられる。

 

短歌の特徴と欠点について

 まず短歌は「私」が発生することにより物語性を暗示することができる。寺山はこれに注目し「第三人物の設計」という方法論及び「私」の拡散と回収という方法論を生み出した。つまり、全体文学の展望は短歌に始まっていると言ってもよい。しかし、先に書いたように短歌はどうしても「私」から出発してしまうという欠点を抱えていた。全体的な「私」を描こうにも他者を描くことはできない、という問題が『田園に死す』の前に立ちはだかった壁であり、寺山の「歌のわかれ」のきっかけであった。

 ただし、晩年において寺山は短歌のこのデメリットを捉え直している。「私」から出発する短歌が、その内面への深化によって滅私の表現に至るのではないか、という展望である。これは未開拓の領域であり、今後の研究と実践によって明らかになるだろう。

 

続いて川柳の特徴と欠点について

 筆者が「寺山修司はなぜ川柳を書かなかったのか~現代川柳の横断可能性について~」にて記したように、寺山は川柳を「芸術」として認めてはいなかった。ただしそれは川柳という形式を全否定していたわけではない。落書にある高い批評精神を認めた上で、川柳の目指すべき道として落書を提示したのである。ここで川柳と落書の共通性として考えられるのが無私性であった。

 川柳は「私は何にでもなれる」という特徴を持ち、それは言い換えれば「私は何者でもない」という特徴――無私性を持つ。川柳の「私」は無自覚な「私」とでも呼ぶべきものであり、それゆえに個のわがままな内面が表れていると言えるだろう。それは詩――芸術になる以前の、揶揄や皮肉といった感情をそのままに描くことが可能な形式であるということだ。

 だが、寺山は川柳を書き残さなかった。これは川柳の抱える署名の問題に起因すると考えられる。落書と川柳の大きな違いは作者名を著すという点にある。作品における署名は、作品の責任の所在を明らかにするものだ。ゆえに寺山は「短歌における『私』の問題」にて、当時の作家がその責任についてどこまで自覚的なのかを問うている。では、この「責任」は果たして川柳にも発生するものなのだろうか。

 筆者の考えでは、落書になり得た川柳はもはや署名など関係なくその責任から逃れることが可能である。先に書いた通り、川柳は「あなたが誰でも構わない」という性質を持つ。それが川柳の無私性であり、その署名すらも無私にしてしまう、というのが筆者の川柳観である。

 この署名の捉え方にこそ寺山が川柳を書かなかった理由があるだろう。川柳は署名の責任を無にする落書の形式であるが、寺山は寧ろ署名により発生する責任に注目していた。さらに言えば、「寺山修司」という署名をした俳句、短歌作品を既に多く残していた。それを踏まえると、自身を仮構し新たな「私」を生成しようとしていた寺山が「落書」に自らの名を著すことを避けたと考えても不自然ではないだろう。

 ここに寺山の課題があったと考えられる。自らは落書を愛し、落書の持つ覚悟を文学に求めていながら、自身は落書――川柳を忌避していた。寺山が晩年に臨んだ内面の深化は、まず川柳から始める必要があったのではないだろうか。

 

 では、これらを踏まえた上で全体文学のあるべき姿を考える。まず、全体文学の前提として全体的な「私」のイメージを作者が持つ必要がある。このイメージのきっかけを川柳の無自覚な「私」が導くだろう。誰でもない「私」つまり誰でもある「私」は、ありとあらゆる「私」に扮して揶揄や皮肉を行うことができる。ここに、一人の作者がありとあらゆる他者となれる根拠がある。そして川柳の持つ内面から始めることで、短歌における内面の深化――滅私の「私」へ向かうことができると考えられる。

 次に、川柳から俳句への横断を行う。ここで川柳が即物的な俳句に書き換わることで、物語性を獲得するための具象性を得ることができる。川柳から直接短歌へ横断してしまうと観念的、説明的な短歌に陥る危険がある。そのためここで俳句へ横断することによって具象性を獲得し、川柳の揶揄を文学的、芸術的な批評性へ昇華することができる。

 最後に、川柳から横断した俳句からさらに短歌へと横断する。ここで具象性と暗示性が融合することで物語性が生まれる。そして川柳のありとあらゆる「私」の内面を深化することで、全体的な「私」の断片を散りばめることが可能になる。つまり、短歌で他者を描くという展望がここにはある。それはまた同時に、深化の果てに滅私の「私」へと至ることも意味している。これが全体文学の輪郭である。

 無私の「私」から滅私の「私」へ。揶揄する「私」から批評する「私」へ。これらの横断を経ることで、全体文学の試みは完成するのではないかと筆者は考える。だが、その実践のためには様々な課題があることも間違いない。

 果たして誰でもない「私」、ありとあらゆる「私」の全体像をイメージできるかどうか。これが第一の課題にして最も大きな課題であると筆者は考える。この文学的に閉塞した時代において、それほどの想像力を持った作家が一人でもいるだろうか。寺山修司が後世に遺した課題は、現代文学の想像力を今一度問うことになるだろう。

 

 以上を踏まえ、寺山の俳句→短歌への作品あるいは寺山の俳句作品を前にし、あるべき川柳とはどういうものなのかについて筆者自身の試作品を提示して筆を置く。

 

 

寺山の俳句及び短歌につけた川柳(小文字が寺山修司の俳句及び短歌、大文字が二三川練の川柳)

 

チエホフ忌頬髭おしつけ籠桃抱き

桃いれし籠に頬髭おしつけてチエホフの日の電車に揺らる

チエホフ忌下北沢に立っていろ

 

夏井戸や故郷の少女は海知らず

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

少女から海の味するチョコレート

 

この家も誰かが道化揚羽高し

この家も誰かが道化者ならむ高き塀より越えでし揚羽

母も道化おれも道化の朝ごはん

 

目つむりて雪崩聞きおり告白以後

草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ

告白も雪崩も君のせいですよ

 

桃太る夜は怒りを詩にこめて

桃太る夜はひそかな小市民の怒りをこめしわが無名の詩

し は もも だいすき 戦争 だいきらい

 

老木に斧を打ちこむ言魂なり

山小舎のラジオの黒人悲歌聞けり大杉にわが斧打ち入れて

老木が斧のペニスにお辞儀する

 

枯野ゆく棺のわれふと目覚めずや

音立てて墓穴ふかく父の棺下ろさるる時父目覚めずや

棺桶に入り親父と旅行する

 

わが夏帽どこまで転べども故郷

ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らむ

故郷で買われた処女が処女作です

 

寺山の俳句につけた川柳(小文字が寺山修司の俳句、大文字が二三川練の川柳)

 

いもうとを蟹座の星の下に撲つ

いもうとを殴った順に下校せよ

 

暗室より水の音する母の情事

母親は水商売に飽きている

 

土曜日の王国われを刺す蜂いて

蜂ならば王国くらい滅ぼせよ

 

旅に病んで銀河に溺死することも

なにが旅なにが故郷溺れてしまえ

短歌連作「頬」

頬   二三川練

 

教室を落ちる夕陽にてらされて骨の身体をあばかれている

足跡をなぞっていけばずれてゆく水平線が身体に充ちる

そうやってきみはなんにん殺したの 詩人が孤児を見つめるように

聞こえないようにつぶやく欲望のあなたの自我に蜘蛛の巣を張る

木々がわらう 木々が泣く 木々が怒る あなたはどこまでも消えている

フィルターをたれるコーヒー待ちながらふいに切りたし誰かの頬を

宝石の名前の子ども一人いてまわるケバブを見つめておりぬ

そのなかで声だったのはわたしだけ肉屋がわたす牛のかたまり

掻き鳴らすギター持たざる僕のため地平を踏み抜けよ競走馬

毒虫のごとくに光る電波塔 吐きだすために噛みしめるガム

暗闇をまだあたたかい手が伸びて迷子の頬をつつもうとする

甘い水ゆびにこぼして痛覚をわすれたようにたたずんでいる

月をみる夜がおわれば放牧のなかにこわれた自転車がある

感情の一つ一つを生き埋めてそれを論破と呼んでいる日々

短歌連作「あなた」

あなた   二三川練

 

ビル群でころがりながらおちてゆく月にわたしの落書きがある

 

人間っていいなをうたう人間の親子がくぐる石の鳥居を

 

泣きながらバットを振って走りさるあなたの脚に向日葵の痣

 

自惚れのまぶしい木々を描いてゆく絵描きの指は油にぬれて

 

喘息のごとくにつづく読点の私小説にもいないわたしは

川柳連作「Welcome to HopE hiLL」

父さんが監視カメラを避けている

 

辞めたまま働いている盆踊り

 

肉汁のあふれることもないピカドン

 

現場から生中継で腹上死

 

生まれなきゃよかった子ども pon de microphone

 

黙祷の隙にいただくアジフライ

 

ワンピースのネタバレ↓↓↓↓↓

 

 

黒ひげは味方

【川柳】8月の川柳

【未発表句】

AIの家族ごっこに水をやる

経歴の首から下がモアイとは

いい意味で器物損壊罪でした

秋めいてパジャマどころかプラモデル

生き証人と死の商人の既読無視

懐の深いレイプになるだろう

 

以下既発表句

【川柳スパイラル】(未発表句あり)

銃弾に当たる定型句の余韻

隕石がはずれて不揃いな下着

外出の癖で毒味が止まらない

エンペラーペンギン殺す外出を

左手味のポテトチップス

弘法もうまい棒の誤り

侍の国にも虹の逆流を

永遠が逆流してる換気扇

神奈川恐怖症の狛犬

はないちもんめガンジーまみれ

花火からこぼれる指は誰だっけ

蟹味噌の醜さだけが国語辞書

 

【盆ダンス】(未発表句、未提出句あり)

道徳でサランラップを剥がしきる

愛妾のサランラップの化石です

半生はサランラップの馬鹿力

菫から生の和牛を切り落とす

眼球に沿って菫を追いかける

多数派は菫 少数派はバカラ

胴上げもかき氷機に詰めこんで

売春がプール開きをほのめかす

風鈴を好きな娘が産まれない

鯖にして犬畜生の回送車

彗星の魚拓ですよと梅雨晴れる

黒人も魚人も命乞いが下手

ダウジングしながら母がゆく富山

カタギにしては蕎麦好きである

恋なんてコードボールにさせとけば

ふるさとの恥をしのんだ女体盛り

残飯と交尾している西新井

お茶がもうハラスメントの味なのよ

ピクミンはぼんやりみんな夜尿症

俳句かと思ったヘイトデモだった

卵から産まれた同性愛者だよ

床ずれが増えたね貞子3D

 

【川柳句会ビー面】

以下に発表

note.com

 

【月報こんとん】

以下に発表

note.com

 

Twitter投稿】

神奈川は魔奈川とかの方がいい

神奈川のチワワは計算ができる

神奈川に住んでる奴はみな反社

神奈川に法律は無い 紙も無い

神奈川が人権なんか語るなよ

神奈川は蓋開けたら目に入る湯気

神奈川で殴ったものはみな燃える

神奈川を脚で渡った者は無し

神奈川の梅昆布茶だけ許してる

神奈川を4で割ったら墓荒らし

ライオンの豆腐にネジが刺さらない

鍵っ子の銃刀法が新しい

さすらいのゆうちょ銀行〇一八支店

ビールから孔雀の首が生えている

気絶するほどスカートの吸血鬼

将棋にも紫の毛が生えている

冷えピタの供託金が粒揃い

眠れそう犬畜生の肌触り

枝豆をson of a bitchとシェアしてる

生ハムにメロンは無いと智恵子は言う

店長の眼から動物園閉まる

バナナ焼く白雪姫のラスタカラー

新しいセフレのようなポンジュース

 

 

 

 

 

僕とは全然関係ないのですが、オトモダチのラム=ラグドールさんが「Vtuber川柳」と称して毎朝川柳をツイートしているので、よかったら見てみてください。こちらは朗読動画にして月ごとにまとめるそうです。

twitter.com

【川柳】7月の未発表句

星降って誰も持たざる誕生日

中八も仲村渠も水没す

歯みがきが踏切に来てくぐりぬける

化粧水に便宜をはかるレオニダス

反対にスパゲッティを泡立てる

パトカーにわたしを乗せて狙撃する

教室は珊瑚とともに引っ越して

脳味噌はひし形だから助けない

棄てられてゼリーのような日本刀

暗殺の皮の焼き目を弟に

晩冬の行列 佛の四肢を捥ぎ

大気冷えてサラブレッドの吐く精子

白衣脱ぎすてSNSに似し郷土

若水にカットレモンを二枚ほど

青空は無限に狭し時計恐怖症

たかが虹たかが感傷孫尚香