灰の森通信

二三川練の感想ブログ

『SNS-少女たちの10日間-』を観た話

 先日、新宿武蔵野館にて『SNS-少女たちの10日間-』というチェコドキュメンタリー映画を観た。しばらく前に映画の広告を見て興味を持ち、観に行こうと思っていたらちょうど友人が「誰か行きませんか」とTwitterで同行者を募っていたのだ。若者がSNSなどを通して見知らぬ他人から性被害を被っているという話は日々耳にするものであり、他人事ではない。そのためドキュメンタリー映画という形で被害を追体験するという機会は、男性であり性被害の経験が少ない僕には大変貴重なものであった。

 

 この映画は、若く見える女優3名を選出し12歳という設定でSNSに登録するところから始まる。すると大量の男たちからメッセージが届く。メッセージの内容は「かわいいね」といった容姿に関わるもの、「下の毛は生えてる?」といった性的なもの、「話さない?」とビデオ通話に誘うものが主である。女優たちは子供部屋を模したスタジオでビデオ通話を行い、監督の指示やカウンセラー及び弁護士のケアを受けつつ囮捜査の形で少女に対する搾取や児童虐待の実態を露わにしていく。作中の映像は実際の犯罪の証拠としても提供され、チェコの警察を動かしたという。

 作中には、12歳の少女に扮する女優たちに何の前触れも無く男性器の画像を送ったり通話中にいきなり性器を見せたりといった行動を取る男性が多く現れる。彼らは自身の性器を見せつけながら"少女"にも裸を見せることを要求する。それは「こちらも見せたのだからそちらも見せろ」という対等に見せた理不尽な要求でもあり、幼い少女が大人の男性に逆らうことは困難であるという事実を(意識的か無意識的かは不明だが)理解してのことだ。彼らは"少女"に性的な要求をすることを当然の権利のように思い、また、40歳や50歳である自身と12歳の少女が、初対面にも関わらず性的な関係や恋人のような関係になれると本気で信じこんでいるのである。

 女優たちには「自分からは連絡しない」「自分が12歳であるとハッキリ告げる」といった7つのルールが定められている。そのなかには「何度も頼まれたときのみ裸の写真を送る」というものがある。この写真は制作陣が用意した偽の合成写真だ。写真を送られた男性たちはほとんど同様の行動を起こす。脅迫である。ビデオ通話で裸にならなければこの写真を公開する、あるいは既にSNSに投稿した、といったチャットが送られてくるのだ。彼らの言い分は「君が裸を見せてくれないのが悪い」というものである。大人を怒らせたくないといった少女たちの心理を利用し写真を送らせ、次は罪悪感と恐怖で正常な判断をできなくさせるという狡猾な手口である。

 

 この映画は性的に搾取されるか弱き少女の視点で鑑賞することができる。例えば性器の写真が送られた瞬間や脅迫のメッセージが届いた瞬間に「ドン!」という大きな音が鳴る、という演出がある。感覚が過敏な僕はその度に心臓を跳ねあげていたのだが、実際の少女たちがこのような瞬間に立ち会った際は同じように、あるいはそれ以上に心臓を痛め長く苦しむことだろう。また、ビデオ通話を行う男性たちの顔には目と口を除きぼかしがかかっている。プライバシーに配慮したものではあろうが、少女からしたら目の前の画面に映る男性は「顔は見えるが得体の知れない存在」だ。このぼかし加工は実際の少女たちが抱く不安感を表す演出でもあるのだと感じた。

 

 余談だが、僕はかつてマッチングアプリに登録していたことがある。知り合いにマッチングアプリを使って異性と出会ったという人が何人かいるが、僕は一度も出会えたことが無い。そもそも知らない人とマッチングしたところで何を話せばいいのかわからず、チャットの会話が続かないのである。僕自身が見知らぬ人から話しかけられたら恐怖と警戒心を抱く性質のため、相手もそうかもしれないと思うととても気さくに話しかけることなどできない。しかし多くの女性のプロフィールに「ヤリモクは来ないで」などの文言が付されていたところを見ると、映画に出ていたような直接的で短絡的な、適切な手続きを踏まない男性が非常に多いのだと予測できた。そのような男性たちによって構成された狭き競争社会に参加する気が起きずアプリをアンインストールした次第である。ちなみにこれはハプニングバーでも同様であった。僕が行った場所では男性たちはセックスできたかできないかで己の価値を決め、ヒエラルキーを形成していたのだ。セックスそのものではなく、セックスをしたという事実によって気持ちよくなるのである。このように性的対象をモノ化し消費することで自尊心を満たすという構造がどこにでもある以上、この映画に登場するような男性も当然どこにでもいるのだと考えるべきだろう。

 

 ところで、作中唯一顔のぼかしが外された人物がいる。看護大学に通う男性で、彼は"少女"から「他の男性から裸を見せるように言われた」と聞くと「裸は大切なものだ」と真っ当な価値観を提示し安心させる。彼に性的な意図が無いとわかってくると共に顔のぼかしが消える――"少女"が安心感を抱く――のである。さらに「通話後のやり取りで彼に性的な意図が無いことが完全に証明された」というテロップが入り、監督たちが称賛し女優たちが「イイ男」「神様みたい」と褒め称えるシーンへ続く。僕は彼がなぜ12歳の少女とコンタクトを取り通話を求めたのかという疑問を抱いたが、作中でそれが解消されることはなかった。これについて少し考えてみたい。

 この男性は通話の理由として「頭の良い人と話したい。君はクールに見えた」と語っていた。しかし、それならば大学生や大人の相手を探せばいい。わざわざ12歳の"少女"を相手に選ぶ理由にはならないと感じた。さらに、彼は性的な意図は無いことを示すために「ネットを使えばいくらでもポルノを探せる」と語っていたが、これは「他に消費できる女がいるから君じゃなくていい」というわけであり根本的に相手をリスペクトしているわけではない(ネットにポルノが無かったら目の前の少女を搾取するのだろうか)。

 つまるところ、この男性は「頭の良い人」と相手をリスペクトしている風を装いながら、その実自分の知性をひけらかすことで自尊心を満たしているだけなのでは無いだろうか。言い換えれば、単なるマンスプレイニングが目的ではないかという推測である。看護学生という立場から少女に適切な性知識を与えたいという心はあるのかもしれないが、ポルノの発言もあり誠実な人物であるとは思えない。もちろん、制作陣が称賛したのはあまりにも狡猾で残酷な性的搾取を行う男たちを見続けたからというのもあるだろう。あるいは、チェコと日本で何かしらの文化の違いがあるのかもしれない。ただ、明確な犯罪を行わないだけで他者を支配し消費することに長けた人物もまたどこにでもいるのだということはここで指摘しておきたい。

 

 ちなみに、このような映画をポルノとして消費しようという男性が少なくないのも確かなことである。彼らはまるで陵辱モノのAVを観るかのように消費される女性の姿を楽しむのだ。あるいは、「恣意的だ」「全ての男性がそうではない」と頓珍漢な反論をするために観る人も少なくないだろう。

 この映画を観る際、僕の隣に来た中年男性(と思われる人物)はどかっと勢いよく席につき大きな身振りで脚を組んだ。その堂々たる、傍若無人とも言える態度に、もしかしたらこの人物は上記のような意図で観に来たのかもしれないと僕は感じた。しかし映画が始まると、隣の人物は作中の男性による卑猥なメッセージなどが映る度に深くため息をつき目頭を押さえるような素振りを見せた。どうやら僕の懸念は杞憂であったらしいが、それならば公共の椅子に乱暴に座ったり映画の上映中に周囲に聞こえるボリュームでため息をついたりといった行為は避けてほしかったと、上映後に喫茶店のチーズケーキを食べながら思うのであった。

 

 

SNS-少女たちの10日間-』公式サイトはこちら

www.hark3.com

 

予告動画はこちら 

youtu.be

 

次回更新は5月6日を予定しています。