灰の森通信

二三川練の感想ブログ

【一句評】あるだけのタオルを積んで夜の底/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)

あるだけのタオルを積んで夜の底/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂

 

 積めば積むほどタオルは上へ昇ってゆく。しかし到達点は上ではなく「底」である。「夜の底」は底知れない夜の闇を表現する言葉であり、この句では情景描写と言葉遊びとが両立している。
 様々な短歌に触れていると、客観的に見ればなんの意味も持たないような行為が主体にとって深い祈りの意味を持つというある種のパターンを知ることになる。この句の「あるだけのタオルを積んで」という行為もそのパターンに含めることができる。ポイントは「あるだけの」という表現である。バスタオルやハンドタオル、様々なタオルを家のなかからかき集めて積んでいく。もちろん畳んで積むだろうから、かさばるしバランスも悪くなるだろう。その不安定さがまさに心情の暗喩となっているのだ。今にも崩れそうなタオルの塔を前にして夜はなおも更けていく。そこには底知れない哀しみがある。

【一句評】練り菓子へ無政府主義がなつかしい/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)

練り菓子へ無政府主義がなつかしい/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂

 

 「練り菓子」という甘くて安い物に「無政府主義」という硬質な物を取り合わせるのが面白い。また、この政治的な言葉に対して「なつかしい」という肯定も否定もしない言葉をつけることで、その価値判断を無化できるというのも川柳という詩型独特の力だろう。それは言葉、概念を人間の手から放すことで宙吊りの状態にするということだ。つまり、俳句的な即物性を物体ではなく概念で行うのである。この不安定、ある意味での不安感が川柳という詩型の面白みの一つだ。これもまた、付句を喪失した原初の体験が由来しているように思える。
 ちなみに、この句のもう一つのポイントは「へ」である。この「へ」で句切れを挿入すれば、「練り菓子」に向けて中七下五の言葉を告げた読みができる。しかし、やはり川柳ゆえここで句切れを挿入せずに読むほうが面白い。ここで「へ」が文法的に不安定になることで、この句がさらに不安定で不安なものになる。概念も文法も手放しながら、それでも霧散するモダニズムと化さないのは作者の力量ゆえのことだろう。

【一句評】遮断機の手前は暑い秋でした/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)

遮断機の手前は暑い秋でした/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂

 

 遮断機や踏切は短歌でも境界の象徴として見ることの多いアイテムだ。たいてい境界が出てくる際はその手前と奥、つまりは「こちら側」と「あちら側」の対比が描かれるように思える。言い換えれば、彼岸と此岸である。
 この句においては遮断機の「手前」が「暑い秋」である。たしかに最近は秋でも暑い日が続くが、それでも字面に違和感がある。秋なのに暑い。暑いのに秋。そもそも気温変動などが生じ四季の変化が異様である昨今、何をもって四季を同定するのだろうか。たしかに実感はあるが言葉にすればすこしおかしい「暑い秋」は「手前」、すなわち「こちら側」にあるのだ。こちらの世界はもうおかしくなってしまった。では、遮断機の向こうには何があるのだろうか。私たちが失ってしまった涼しい秋だろうか。それとも、来たるべき暑い冬だろうか。

【一句評】暗がりに連れていったら泣く日本/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)

暗がりに連れていったら泣く日本/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂

 

 シンプルなユーモア川柳と言えるだろう。ここでの「日本」は子どものように幼く、心細い。当然時事句でもある。面白いのは、この句の主体が「日本」を「連れていった」ことである。本来は国=政治の動きに国民が連れて行かれるという構造がここでは逆転し、主体が「日本」という国を先導する存在となっている。
 時事句、というより日本という国への評価としてこの句を読み解くと実に批評的である。「暗がりに連れていったら泣く」ということは、普段は陽の当たる場所にいるのだろう。さらに、そこでは少なくとも泣いていない。日本のことだからなんなら威張っているのかもしれない。だが、ひとたび「暗がり」に連れて行ってしまえば日本は泣き出す。表では強気なようでも、その背後には不安、脆弱さを抱えているのだ。もはや先進国とは言えなくなってしまったこの国の、それでも自身が先進国だと信じようとする姿を端的に言い表しているようだ。しかし、遺憾ながら泣きを見るのは小市民やマイノリティばかりである。いずれは、陽の当たる場所にいる者たちにも泣きを見せたいものだ。

【一句評】勝ち負けでいうなら月は赤いはず/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)

勝ち負けでいうなら月は赤いはず/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂

 

 「勝ち負けでいうなら」と言っておきながら「勝ち」でも「負け」でもなく「赤いはず」という結論が出ている。「赤い月」といえばなかにし礼に同名の小説があるが、その他多くの漫画作品などで不吉の象徴(またはヴァンパイアの象徴)として見ることが多い。その「赤い」状態が本来の姿だとこの句は主張しているのだ。
 この句は「いうなら/月は」と句切れが挿入されているが「なら」が接続詞であるため非常に薄い。これにより起こる意味的なねじれがこの句の面白さだ。「勝ち負けでいうなら」と前置きしている以上は「月は赤い」という状態もまた「勝ち負け」のどちらかなのかもしれない。しかし、読者がそれを判定することは不可能である。すると、「勝ち負けでいうなら」というある種の常套句への疑念が生まれる。そもそも「勝ち負け」で何かを判定するという、その価値観自体への批判としてこの句が機能しているのだ。「勝ち負け」で判断するという、その価値観が是であるならば「月は赤いはず」なのだ。
 もちろんそこまで論理的な句として読む必要は無い。だが、「勝ち負け」で言おうとしたところで、その価値観で捉えようとしたところで「勝ち」でも「負け」でも言い表せないものの方がこの世には多い。それは確かなことだ。

【一句評】なりゆきで寂しくなった楕円形/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)

なりゆきで寂しくなった楕円形/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂

 

 寂しくなったのはこの楕円形だけだろうか。それとも、全ての楕円形は実は寂しかったのだろうか。僕は後者の読みを選びたい。言われてみれば楕円形とはどこか寂しい形のような気がする。整った形だというのに真円を押しつぶしたような歪みが感じられる。この「真円を押しつぶした」というのが「なりゆき」だろうか。いや、そうとも限らない。この「寂しくなった」というのは形の話ではなく、楕円形の自我の話かもしれない。「寂しい」という情緒に「楕円形」という歪ながらも整った幾何学の存在を取り合わせるのは非常に面白い。寂しさの由縁を「なりゆき」とだけ記すのもちょうどいい塩梅の余白と言えるだろう。
 川柳の余白は、付句への志向と言い換えてもいいかもしれない。もちろん作品にもよるだろうが、この句は読めば読むほど七七を付けたくなってくる。川柳はそれ自体独立した形式であるが、その発祥を考えれば付句をつけたくなるのも当然かもしれない。

 


 なりゆきで寂しくなった楕円形  樋口由紀子
  一直線にならぶ惑星      二三川練

 

 なりゆきで寂しくなった楕円形  樋口由紀子
  ひとりひとりに蜜柑手わたす  二三川練

 

【一句評】前の世は鹿のにおいがしたという/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)

前の世は鹿のにおいがしたという/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂

 

 前世の話をする際、「前世の私は◯◯だった」という自身の状況について話すことは多いだろう。しかしこの句では「鹿のにおいがした」という全盛の「私」がいた世界についての描写になっている。しかも「という」という伝聞調である。ここから「前の世」の話をしているのは他者と考えることもできるが、僕はこれを前世の「私」から聞いているのだと読みたい。今生の「私」が前世の「私」からその頃のことを聞いているのだ。
 またこの句の大きなポイントは「鹿のにおい」である。鹿のにおいとはどんなにおいだろう。鹿は牛や馬ほど人間と近くなく、虎やライオンほど遠くもない動物だ。草食動物である鹿のにおいは、きっと自然界を暗示するにおいをさせていることだろう。自然の、そして神聖なにおい。「前の世」は想像するよりも遥か昔の時代なのかもしれない。対して今の世はどのようなにおいがするのだろうか。

 

 余談。僕は川柳の初心者であるが連句の経験は合計して三~四年はあると思うので平句として考えればもう初心者を名乗るべきではないのかもしれない。平句から独立した川柳は前句と付句を喪失することで初めて自らの切れ――独立性と完結性を獲得したのかもしれない。一方で、独立せず完結しない、前句と付句のにおいを残すことで独立と完結を為した句もあるだろう。浅学ではあるが、今月の一句評を通して川柳と切れの問題にも目を向けていきたいと思う。