灰の森通信

二三川練の感想ブログ

『サワーマッシュ』と劇場の話

 谷川由里子さんの第一歌集『サワーマッシュ』(二〇二一年三月 左右社)を読んだ。自然に没入し自然を身体化していくような感覚が心地よい歌集だった。

 

太陽がシーツを乾かしてくれるシーツは太陽を忘れない

 

風に、ついてこいって言う。ちゃんとついてきた風にも、もう一度言う。

 

 現代口語短歌は妙に無機質か妙に溌溂か妙に言葉遊びかの三つの軸によるというのが僕の印象で、この「妙」というところに作者の力量が試される。特に現在の傾向としては無垢で傷つきやすい「私」をさらけ出したり、「私」と世界の断絶が内面化されたりといった印象がある。また、「写生」や「リアリズム」と呼ぶには冷めきっており「ニヒリズム」と呼ぶには意志性の薄い客観描写が目につく。木を見る「私」は描けても「私」を見る木を描けないのだ。この、客観呈示とでも呼ぶべき潮流のなかで、谷川さんの短歌は溌溂であり無機質でもありどこか言葉遊びの要素を取り入れながら、「私」と「自然」との交流が描かれているように感じられる。

 

 ところで、僕は客観呈示の潮流が「劇場」の喪失から来ているのではないかと考えている。現実に溺れるほどの情報化社会のなかで、小市民の演じる機会は社会生活を全うするために心を殺す演劇であり、心を生かす演劇があったとしても実際の自分との乖離を生んでしまう。そこに来て短歌が「私」からしか出発できない形式であるとなれば、歌人が紙の上ですら社会生活を生きてしまうというのも、悲しいことながら納得がいくのである。
 例えば僕などはさっさと本名の僕を殺害してその遺灰のなかからペンネームの僕が生まれてくればよいと考えているが、ペンネームの「私」が実際の私ではないという苦しみを抱く表現者は少なくないようだ。このとき、「私」に少しでも実際の私を近づけようとする気力は社会生活が既に奪っているのである。表現者が紙の上ですら夢を見られない時代に、いかなる希望が生まれるというのだろう。
 また、感染症と政府の失策により社会生活が制限されたことでさらなる「劇場」が奪われたことも既に表現者たちに影響を与えていることだろう。宅配で食べる寿司と寿司屋で食べる寿司とでは、同じ店の寿司でも気分が大きく変わるものだ。主人として家のなかに祝祭空間を作ることと客人として祝祭空間に赴くことは違う。言い換えれば、精神的な「旅」を奪われてしまったのが現状である。家という空間でありのままの「私」でいられようがいられまいが、自らの「身の丈」を否が応にも見せつけられてしまう。そのとき、表現者はなおも「夢」を見ることができるか。
 紙の上が舞台である以上、歌のなかの「私」は役そのものであり役者ではない。しかし客観呈示の短歌は、身の丈をわかりきった作者が「私」を演じることへの気恥ずかしさや衒いを抱くことで発生する。過剰な気取りやロマンチシズムの仕草を見せる短歌についても、結局は心から役を演じられていないがゆえのことである。

 『サワーマッシュ』における「私」と自然との交流はそういった意味で劇的である。

 

ルビーの耳飾り 空気が見に来てくれて 時々空気とルビーが動く

 

ほっぺたに当たる風にはほっぺたがある ずっと仲良しでいたいな

 

 ただし、後半になるにつれて段々とこのような歌は減っていく。興味の対象が自然から人へ移っていっただけであり、歌の質が落ちたというわけではないのだが。

 

平日の電車の顔は日陰から日なたに出ると誇らしそう、かな

 

東京も空ひろいよね、空をみて言ったら そうね と、空が もっと

 

 だんだんと断言型ではなくなっていく歌に、世俗の垢を見ずにはいられない。自然への興味や自然を解釈する「私」はなお劇的でありながら、しかし確実に自然が身体から剥がされている。
 続いて、句切れと暗喩の視点から一首。

 

 眺めたときはまだあったのにニューヨークチーズケーキを食べ損ねた

 

 この歌は「ニューヨーク/チーズケーキ」と句切れを挿入することで、歌の背後に滅びたニューヨークの光景を見ることができる。この歌集には全角スペースを用いた歌が多く、それは句切れの他に調子を整える効果があるのだろう。しかし、全角スペースや句点読点を用いない歌に句切れや文法の妙がより発揮されていると、僕には感じられた。最後にそのような歌を二首引用する。

 

かまぼこの形の舟になれるならみるべきものはへんな夢だよ

 

あの世から呼べばこの世の公園の花のパネルもあの世なんだね

 

 

次回更新は5月13日(木)を予定しています。

 

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