灰の森通信

二三川練の感想ブログ

ウマ娘世界の考察と寺山修司の話

 先日、吉祥寺曼荼羅にて大学時代の恩師である福島泰樹先生の短歌絶叫コンサートに行った。貧乏学生ゆえ会費が払えなかったことと、自分が歌人の集まりにとことん向いていないと気づいたために月光の会を離れて、三~五年は経っていた。久々にお会いする月光の方々はあたたかく、また歌会に参加しようかなと思った次第である(もちろん、そのためには僕の歌会嫌いが少しでもなりを潜める必要があるのだが)。
 コンサートが始まる直前、月光の方に近況報告として寺山の横断文学の試みを追体験していることを話した。すると「じゃあ競馬もやらなきゃですね」と冗談めかして言われ、僕は「競馬を元にしたゲームにはハマっていますけどね」と返したのだった。間違ったことは言っていないのだが、どこか相手を騙しているような感覚が湧いた。僕が夢中になっているのは、「ウマ娘 プリティダービー」というスマホアプリである。

 

 「ウマ娘 プリティダービー」は、いわゆる美少女擬人化ゲームである。実在の競走馬をモデルとした「ウマ娘」を、プレイヤーが「トレーナー」となって鍛え上げる。ウマ娘はみな馬のような耳と尾、そして超人的な身体能力を持っており、全員が美少女である。僕たちが生きるこの世界とはパラレルワールドのような関係にあり、僕たちの世界における馬は全てウマ娘に置き換えられている。二本足であるため「馬」という漢字も点が四つから二つとなっており、芸が細かい作品である。
 ちなみにウマ娘世界のレースでは競馬のように観客が金を賭けるということは無い。ウマ娘たちのレースは陸上競技のようなものであり、スポーツなのである。そしてレース後には出走したウマ娘たちによるウイニングライブが開催され、一着を取ったウマ娘がセンターを務めることになる。要するに、アイドルである。
 このゲームと派生作品であるアニメのシナリオはよくできており、実在の競走馬の歴史をなぞりつつウマ娘がトレーナーや仲間のウマ娘と心を通わせながら自己実現を果たしていく物語となっている。それは、ウマ娘が元の競走馬の運命を覆し自らの生を獲得する物語であると言ってもよいだろう。寺山修司は『誰か故郷を想はざる』(一九七三年五月 角川書店)にて「馬は夢など見ない」と書いているが、ウマ娘は夢も見れば敗北の涙も流すのである。商店街の住民たちに慕われながら彼らと自身の夢を背負いターフを駆けるハルウララナイスネイチャの姿に、僕などはたやすく胸打たれてしまうのだ。

 

 ところで、人間並の知能と体格でありながら人間を遥かに凌ぐ身体能力を持つウマ娘は、いかにして人間たちの娯楽空間に閉じこめられていったのだろうか。
 アニメではあまり悪人がいない印象の世界観ではあるが、ゲームシナリオでは現実世界同様に弱い者いじめもあればトレーナーによるウマ娘のモノ化も発生している。長い歴史のなかでは人間によるウマ娘売買や激しい種族間闘争があったとしてもおかしくはない。ウマ娘は僕たちの世界における競走馬と同じ名を持って生まれてくるという設定であるため、その歴史は競馬と同じ長さであり数は全ての競走馬と同じということになるだろう(寺山修司の詩「さらばハイセイコー」に詠まれたハイセイコーもどこかにいるはずである)。いや、ウマ娘の出現から彼女らにレースをさせるまでまた長い歴史があったと推測できるため、実際の競馬の歴史よりウマ娘たちのレースの歴史は遥かに短いものであると考えられる。であれば、ウマ娘の発生初期には彼女らを安全に保護するだけの倫理観はある程度社会に整っていたかもしれない。その頃はおそらく、「人間の突然変異種」という扱いだったのではないだろうか。また、たった一人が発見されたというよりは世界中で同時多発的に発生したと考えた方が作中におけるウマ娘の繁栄も納得ができる。現在でもウマ娘ウマ娘から、あるいは人間から偶発的に生まれていると考えられる。作中に登場するウマ娘の母親はみなウマ娘であるため、ウマ娘が女性を産んだら確実にウマ娘になると考えてもよさそうだ。
 もしも作中で既に確定事項として扱われていることを己の推測のように語っていたら大変お恥ずかしいためご指摘いただきたいのだが、このような想像は留まることが無い。第一世代であるウマ娘たちは、いかにして人間の男性と関係を持つに至ったのか。同時多発的に発生したならば、ウマ娘は未知のウイルスによって誕生するのだという説も生まれたのではないだろうか。超人的な身体能力を持つウマ娘が、人間たちの見世物としての生に人生の意義を見出すのはなぜか。そして、作中において人間でありながらウマ娘に追いつくほどの脚力を見せる女性がいることは、ウマ娘は後天的にもなりうる可能性があるということだろうか。もしそのようなことが起きた場合、人間だった頃の名前はどうなってしまうのか。

 

 これくらいで留めておくが、ウマ娘世界の謎はこの作品の大きな魅力の一つである。実在の競走馬をモデルとしているため過激な二次創作は禁止されているが、歴史を考察することは許されるのではないだろうか。
 ところで、競馬評論家でもあった寺山修司が現在も生きていたらウマ娘をどのように評価しただろうか。性的に過激な発言をして強く批判される様子が目に浮かぶが、あれだけ時代に敏感だった寺山ならば人権感覚も時代に合わせて整えるかもしれない、などと淡い希望を抱きたくもなる。一つ言えるのは、金を賭けないアイドルショーとしての競馬を寺山が楽しめるとは思えないということである。

 

 レースを成り立たせるのは、ファンの魂のなかの「エロス的現実」である。
 それは、ファンの空想のなかに、あらかじめ組み立てられた一つのレースと、現実原則によって規定されたホンモノのレースとのあいだに横たわる「時」の差である。
 人は、その「時」の差に賭けるといってもいいだろう。(中略)私は現実原則によって支配される「確かな現実」、「存在した現実」よりも、常にあいまいに空想されている「エロス的な現実」「無意識的な現実」のほうに、競馬賭博の楽しみを見いだす。(『誰か故郷を想はざる』)

 


 そういえば、ウマ娘の普及により競馬に興味を持つ人間が増えたようだ。僕自身もその一人で、翌日に皐月賞があるとわかるや否や出走馬を調べ、最も人気の低かったルーパステソーロに単勝五〇〇円を賭けた。夢を見るならば勝てないと思われている馬に限るからである。
 しかし、残念ながら結果は十四着であった。そしてレースを見ながら、僕は自分の心がじわじわと冷めていくのを感じた。ウマ娘と違って「勝ちたい」という意志を表明することもなく、自身の人気順も知らない存在に夢を見ることが虚しいことのように思えたのである。
 僕は生きている限りは賭ける側より賭けられる側で在りたいと思うし、自らの運命を蹴飛ばすことができるのは自らの生まれた星を知る者しかいないとも思うのである。それゆえに、実際の競馬よりもウマ娘の方が僕にとっては魅力的に映るのだ。

 

 ウマ娘のなかにも、ウマ娘としての生を覆すためにターフを駆ける者がいるかもしれない。驚異的な末脚でゴール板を駆け抜け、その勢いのままレース場を走り去り、あとは一切を駆け抜けるのみ。そして自らの名前すらも走り去ったとき、彼女はようやく自身の夢を駆けるのである。

 

 

次回更新は5月26日(水)を予定しています。

 

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