灰の森通信

二三川練の感想ブログ

エヴァンゲリオンと児童虐待の話

 エヴァンゲリオンを観た。エヴァンゲリオン、と言っても様々だが僕が観たのは新劇場版の序・破・Q・シンである。テレビシリーズは数話観たのみで旧劇場版は未視聴であり、漫画(貞本エヴァ)はシンを観た後に全巻読破した。新劇場版以前を観ていない以上は一部の熱狂的なファンの方に眉をひそめられてしまうかもしれないが、どうかご容赦いただきたい。
 僕がエヴァンゲリオンを観はじめたのはシン・エヴァンゲリオンが公開してからのことである。人気作であることは当然知っていたが敬遠していたのだ。その理由は三つほどある。まず、歴史ある人気作を1から学ぶのはそれなりの心構えが必要になること(同じ理由で僕はバック・トゥ・ザ・フューチャーも観られていない)。次に、ロボットらしき存在が活躍するアニメに熱中できた経験が無かったこと(マクロスガンダムも観続けることができなかった)。そして、エヴァンゲリオンでは激しい児童虐待が描かれると聞いていたからだ。

 

 エヴァンゲリオンは、主人公である中学生の碇シンジが疎遠であった父親の元に突然呼ばれるところから始まる。再会の挨拶を交わすこともなく、父親である碇ゲンドウはシンジに「エヴァに乗れ」とのみ告げる。エヴァンゲリオンは地球を侵略し破壊する「使徒」と呼ばれる存在と戦う兵器であり、シンジはその操縦士として選ばれたのだ。しかしそれらのことを初めて告げられた少年シンジは当然戸惑い、エヴァンゲリオンに乗ることを拒否するのである。
 このときゲンドウはシンジに「乗らないのなら帰れ」と告げ、シンジを連れてきたミサトも「父親から逃げるのか」と迫る。極めつけに、代わりの操縦士として現れた包帯まみれの怪我人の少女綾波レイを前にして、シンジは追い込まれる形でエヴァンゲリオンに搭乗する。その後はあれよあれよと言う間に「乗ると自分で決めたのだから責務を全うしろ」と責められたり、最終部で「自分自身の願いのためにエヴァに乗れ」と鼓舞してきた人物に次作冒頭で「エヴァに乗るな」と冷たく言い放たれたり、うっかり人類を滅ぼしかけたりと散々な目に合うのである。周囲の大人たちや同じ操縦士であるレイ・アスカのシンジに対する態度は酷いもので、序・破・Qを観た限りでは「このような人類ならば滅んでも構わないな」とすら思えてしまうのである。
 しかし、シンも含めた新劇場版にて描かれる人類と現実の人類とで何が違うというのだろうか。

 

 ところで、僕が児童虐待に関心を持ったきっかけは平山夢明の短編「おばけの子」である。これは一人の子どもが激しい児童虐待を受け、何一つ救われることなく死んでいくという物語だ。さすが平山夢明と言うべき読後感であり、呆然としながらも僕はある種の心地よさを感じていた。人生は主観的には悲劇であるが、客観的には喜劇なのである。

 

 その夜、丸坊主にされた千春はスチール製本棚の上部に通されたロープで両手を釣り上げられた。足は爪先立ちしかできなかった。口にはガムテープが貼られた。アキオが「そんなに学校に行きたきゃ行かせてやる!」と、千春にダンベルを詰めたランドセルを背負わせた。ダンベルはホームセンターで買ってきた本物で、長時間腕を上げ続け、立ち続けた上、肩に食い込むランドセルを背負わされた千春は金切り声をあげ、苦しみのあまり自分から金属の棚に躯をぶつけ始め、遂には自ら肋骨を砕いていた。(平山夢明『暗くて静かでロックな娘』2015年12月 集英社

 

 
 それから、ニュース番組などで児童虐待の事件や話題を見る度にこの短編を思い出した。その悲劇喜劇入り混じった感情のなかで僕は確かに「児童虐待」を身近に感じることができ、また、少年期に両親が施した「躾」の全てが単なる虐待であったことに気づくのである。
 優れた作品のなかには、暴力を通して暴力の恐怖を描くものがある。「おばけの子」は当然としてエヴァンゲリオンもまた、これを観た多くの良識ある視聴者がシンジに同情する以上は、その類いの作品であると言うことができる。周囲の人物に追い詰められるシンジの心を追体験する構造は、やはりある程度は虐待への問題意識を持たねば成立しなかったのではないか。その点において僕はエヴァンゲリオンを肯定的に捉えることができたのだ。
 あるエヴァンゲリオンの熱意あるファンと話した際に、「人はエヴァを語るとき自分の話しをしてしまう」という意味のことを言われたことがある。それも優れた作品に共通する「あなたの物語」と「わたしの物語」の境界を壊すという作用であり、その例に漏れず僕もエヴァンゲリオンA.T.フィールドを壊されるような心持ちで自分語りをしてしまいそうになる。しかし、やはりそれはまたの機会に取っておこう。

 

 一般的な意味での「家族」とは、血の呪いによって共同生活を余儀なくされた他者集団のことである。そして人生というものが苦である以上は子どもを産むことすらも一つの虐待であるというのが僕の考えだ(もちろん、不幸にも生まれてしまった子どもたちを精一杯幸福にしようと努力することは大人の責務である)。エヴァンゲリオンの操縦士として"選ばれた"シンジたちが「チルドレン」と称されるのは偶然では無い。選べなかった運命の波に揉まれながらも選択をして生きねばならないというエヴァンゲリオンのストーリーは、人間の人生そのものであると考えてよいだろう。そしてこの"生"という苦痛のなかで人間を救えるものは、結局のところ「私」と「あなた」の境界を破壊する試みでしかないのである。

 

 「人と人との繋がり」や「絆」といった言葉があまりにも軽々しく扱われる現代にあって、エヴァンゲリオンではたかだか1親子の対話が行われるまでに幾度も世界の危機が訪れる。新劇場版を全編通して観た僕は、2017年に公開された寺山修司の小説『あゝ、荒野』を原作とした同名の映画にて、新宿新次とバリカン健二がリングの上で殴り合う場面を僕は思い出した。父親の暴力に恐怖し他者を殴る勇気を持てない健二はシンジのようですらある。一方、暴力的だが社交的で感情表現豊かな新次は健二の絶対的な他者として立ちはだかるのだ。碇親子にせよ新次と健二にせよ、他者という「私」ではないものと繋がる過程として暴力を描いたのは共通する。そして、同様の構造の作品が少ないわけではない世の中において、未だに軽々しく寒々しい「繋がり」や「絆」を口にする人物を目にする度に僕は唾を吐きかけたくなるのだ。
 本来、人と人が繋がるためには命を賭すほどの覚悟と精神的な"殴り合い"が求められる。それは疲弊した現代において多くの人々が拒んでいることでもある。だが、拒んできた結果が権力者たちによる歯の浮くような「絆」という言葉であるというのもまた動かしがたい事実だ。それに気づくための「インパクト」がこれまで何度起きてきたことだろう。そして一方で、「コミュニケーションには痛みが伴う」という言葉を利用して強者の立場から一方的な"対話"を迫るような人間も非常に多い。そんな世界で、僕たちは如何様に「繋がる」ことができるのだろうか。

 

誰かを求めることは
即ち傷つくことだった
宇多田ヒカル「One Last Kiss」

 

 

 

次回更新は6月2日(水)を予定しています。

 

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