灰の森通信

二三川練の感想ブログ

「シモーヌ」VOL.4と私性とテクスト読解の話

 「シモーヌ」VOL.4を読んだ。これは「雑誌感覚で読めるフェミニズム入門ブック」を銘打っており、私も連載「ふみがわのフェミ短歌塾」にて参加させていただいている。今日はこの本の感想やそれに関連することなどをつらつらと書いていこうと思う。

 

www.gendaishokan.co.jp

 

 まず、今号の特集は「アニエス・ヴァルダ」である。私は恥ずかしながら本書を手に取るまでこの女性映画監督の存在を知らなかった。読了後にアマゾンプライムにて『幸福』を観たが、本書で多くの執筆者が言及されている『歌う女・歌わない女』は配信にも無かったためこれから探してみようと思う。

 『幸福』は残酷な映画であった。新たなパートナーを作ったことを一ヶ月も妻に内緒にした男の口からは自己正当化の言葉ばかり。事故――おそらくは自殺――した妻の代わりをそのパートナーが務め、なんの障害もなく家族の幸福は続いていく。この作品における「妻」とは一人の人間を指すのではなくその役割を果たす存在のことを指している。亡くなることで人間としての感情を示した妻は、しかし、一時の悲劇として忘れ去られてしまうのだ。それが決して批判的には描かれていないがゆえに、「夫婦」という構造が問い直されるのである。

 本特集において私が注目したのは以下の記述である。

 

この作品(筆者注 『ダゲール街の人々』)のスタイルは、ヴァルダが三歳になる息子マチューの面倒をみるために、自宅から持ち出した電気ケーブルが届く九〇メートル以内の範囲で撮影するという私的な条件から生まれたものだという。(中略)ヴァルダの「生活」と「私的なこと」が作品の方法論と美学を規定していることがわかる。

(中略)この作品(筆者注 『ラ・ポワント・クルート』)は、(中略)ドキュメンタリーとフィクションの境界を無効化するというきわめてヴァルダ的な方法によって作られている。(菅野優香「最愛の夫 ヴァルダの「ドゥミ映画」を読む」)

 

 ここに私は短歌における「私性」の問題との接点の可能性を見た。短歌は作者の実生活が題材になることが多い形式である。それゆえ、短歌読解の際は作中人物の社会的プロフィールを想像しその精神の在り方を分析するものが多く、言語芸術という側面をつい忘れがちになってしまう。一方では短歌の「余白」を愛しながら、他方ではその「余白」を好き勝手に塗りつぶすという歪んだ構造が当たり前になっているのだ。

 特に、寺山修司が短歌創作において全体的な私像をイメージした上でそれを各歌に散りばめ、読者が回収するという「私の拡散と回収」の方法論は重要なものであった(「短歌における「私」の問題」)。しかし、これを岡井隆が「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。」(「〈私〉をめぐる覚書(その三)」)として、作者の問題から読者の問題へとすり替えてしまったのである。そしてこれを信奉した歌人たちが歴史を作ってきたがために、現代でも多くの歌人が「作中主体」や「語り手」などの言葉を用いて「私性」の袋小路で泥んこ遊びに耽っているのである。

 また、後に最近短歌の世界では「テクスト読解」というものが流行しているらしい。これは一つの作品を読解する際に作者の情報などをできるだけ含まずに読もうとするもので、おそらくは短歌作品の評価に作者の社会的性別や年齢が関わるという悪習への拒否感から掲げられてきたものだろう。

 先に引用したようなヴァルダの手法は、テクスト読解においては無効になってしまう。作者の情報を敢えて無視する世界においては、そもそも「ドキュメンタリー」というジャンルすら成立しないのかもしれない。作品のなかに実生活の「私」を拡散させる手法は作者が自身の現実を見つめ直す上で重要である。そして観客が虚構と現実の狭間に置かれた真実へと手を伸ばさんとする作業によって、初めて作品が完成するのである。

 引用に記された映画を観ているわけではないのでこのくらいにしておくが、ある作品が社会的かつ個人的な文脈の上に置かれることは作品評価においては必然のことである。映画が社会的な形式であり短歌が個人的な形式であることを差し引いても、テクスト読解とそれを前提とした創作行為には早急に身を引いていただきたいというのが本音である。

 

 さて、本書ではアニエス・ヴァルダの特集の後に映画会社アップリンクによるパワーハラスメントとその裁判の時系列などを扱った「多様で公正な世界を映し出すために」が置かれている。フェミニストの映画監督の特集からこの記事に続くのは連句的な美しさを感じた。力の入った「映画業界意識調査アンケート」は必見である。回答依頼を送った174社のうち12社しか回答しなかったというのは留意すべき事柄だろう。数多くの優れた作品を私たちに鑑賞させてくれる施設が、搾取の上に成り立つことのないよう願う。

 

 全ての記事に言及したいのは山々だが、あと一つ二つに留めておこう。次に取り上げたいのは、伊是名夏子×荒井裕樹×石川優実×松波めぐみによる座談会「障害者の声はワガママなの? JR乗車拒否問題から合理的配慮、当事者運動の歴史を学ぶ」である。事の発端は伊是名さんのブログをご覧いただきたい。

 

blog.livedoor.jp

 

 車椅子を使用する人は車椅子を使用しない人と同じように駅を利用することができない。すなわち、社会においては未だに車椅子使用者はいないことにされている、または「例外」の存在として扱われているということである。特に言及したいのは荒井さんの「自分のこととして考えてほしいっていうメッセージを発信すると、なぜか自分の感覚で裁く人がいる」という発言である。

 最近、様々なものを目にしながら思うのは「自分事として考える力」の欠如である。例えば、漫画の登場人物でワガママな子どもが現れたら感想欄にて大人の立場から酷く罵倒する、というような光景がある。他者の視点には立てず、現在の自分の視野でしかものを見ることができないのだ。言い換えればそれは想像力の欠如である。漫画の登場人物にせよ生きている人間の主張にせよ、その奥にいる「人間」を見ることができない。車椅子ユーザーではないから車椅子ユーザーは完全な他人となる。ゆえに車椅子ユーザーのことを知ろうともせず、独断と偏見で物事を決めつけて罵倒する。座談会内で石川さんが語るように#kutooにおける差別的バッシングもこの構造を背景としていると考えられる。ある言葉や行為の背後に一人の「人間」を想像できないゆえに、マジョリティによる表面的な社会に覆い隠されてしまう。

 

 先日、『チョコレートドーナツ』という映画を観た。ゲイカップルがダウン症の子どもを養子にするが、やがて二人がゲイであることが露呈し子どもと引き離されてしまう。三人は幸福な生活を送っており子どもに多くの愛情を注いでいたことが近しい人物から告げられても、ゲイであるがゆえに子どもへの「悪影響」を捏造されるのだ。作中、パーティーで関係性を周囲から隠す二人は「これは差別よ」「差別じゃない。現実だ」という会話を行う※1。しかし、その「現実」が三人の幸福を奪うのである。

 ヴァルダの『幸福』においては「妻」という存在が上書きされることによってそこにいた一人の人間が消されてしまった。『チョコレートドーナツ』においては幸福な三人の「人間」を見ずに差別と偏見による決めつけによって関係が引き裂かれた。そして、JR乗車拒否問題や#kutoo運動では伊是名さんや石川さんの人格の決めつけや「障害者」「フェミニスト」に対する偏見によって激しいバッシングが起きている。特に「差別の問題ではなく個人の問題だ」のようにある行動の社会的文脈を無視して個人の問題に矮小化せしめんとする手口は、まるで社会は此の世に突然現れたとでも主張するような愚行である。これらに深い憤りを覚えると同時に、このような現実を前にしてもなお作品の背後にいる人間と社会を排除しようとするテクスト読解には憤りとともに深い絶望感を抱く。既に「弱者は文学を作る」ことすらできなくなる時代が来ている。

 

 今、「私はあらゆる他者であり、あらゆる他者は私である」と言えるほどの想像力を持ち得た人物がどれだけいるというのだろうか。他者への想像力を持たない限り市民の幸福は奪われ続け、短歌の私性が袋小路から出ていくことも、またできないのである。

 

 

※1 記憶頼りの引用だが、ゲイカップルの片方が字幕において「女ことば」を使用していたためこのように表記した。字幕における「女ことば」の問題については「シモーヌ」VOL.4の中村桃子「世界の女性は「女ことば」を話す」を読んでいただきたい。

 

  

次回更新は6月30日(水)を予定しています。