灰の森通信

二三川練の感想ブログ

「現代短歌」編集部からの応答とそれに対する応答について

【「現代短歌」編集部からの応答とそれに対する応答について】文:二三川練

2021年8月21日(土)に「現代短歌」編集部宛に抗議署名を提出致しました。(これまでの経緯につきましてはこちらを御覧ください。)
この度、2021年9月2日(木)に「現代短歌」編集長の真野少様からお返事をいただきました。全文掲載という形式に限り掲載許可をいただきましたので、本記事にてお返事を掲載致します。

まず、私が「現代短歌」編集部宛に送った文面が以下の通りになります。

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「現代短歌」編集部
ご担当者様

 

はじめまして。歌人の二三川練と申します。
先日貴社より刊行されました「現代短歌」2021年9月号(通巻86号)の
編集後記の文章につきまして、抗議署名を提出するためご連絡いたしました。

該当の編集後記について、
私の批判は、個人ブログ(下記URL)にて詳細に記載してあります。
お目通しいただけましたら、
私の考える問題点と署名活動の趣旨について
ご理解いただけるのではないかと存じます。

https://renfumigawa.hatenablog.com/entry/2021/07/29/200000

また、ご担当者様もご多用のことと存じますので、
私が考えている主要な問題点について、同ブログ内より手短に引用いたします。

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・編集部が企画に対する自らの責任を放棄した上で、歌人に対し非常に高圧的な態度を取っている

  こちらは、「不満顔のきみのために」から始まる全体的な口調を見れば一目瞭然であるかと思われます。また一文目以降の内容は「アンソロジーに取り上げたかったけどきみのせいで取り上げられなかった」という責任転嫁となります。例えば私は「同人誌でも存在感が薄く、作歌を続けているのかどうかも怪し」い歌人に該当するかと思われますが、それでもこのような書かれ方をされる謂れはありません。
 アンソロジーは人を選ぶ側が全責任を負うからこそアンソロジーとしての価値があり、ゆえに読者は選ぶ側の選定眼も含めて楽しむのだと私は考えております。しかしこの編集後記の書きぶりでは編集部の責任は一切放棄され、選ばれた歌人に対しても「連絡先がわかった」「DMに返事が来た」「同人誌で目立っていた」という理由で選んだのかという疑念が生まれます。つまりこの60人は、歌の質ではなく歌人としての政治的立ち回りが評価されて選ばれたのか、と疑われかねないのです。このような態度はアンソロジーに呼ばれなかった側はもちろん、選ばれた方々やこのアンソロジーを楽しみにしていた読者の方々までも侮辱するものです。


・「市」と「石」という比喩

  この編集後記では、アンソロジーに呼ばれなかった(DMに返答をしなかった)多くの歌人の心情を「市に並べて値踏みをされるのは御免だという気持ちはわかる」と勝手に推察しています。「きみ」をプライドが高く他人からの評価を拒む存在として勝手に設定し諭すような書きぶりですが、現在の様々な短歌の新人賞の応募総数などをご存じないのでしょうか。
 さらに言えば私は、そしておそらくはこのアンソロジーに呼ばれた歌人も呼ばれなかった歌人も、「現代短歌」をはじめとする短歌総合誌に作品(=「石」)を渡し売上に貢献することを目的として作歌活動を行っているわけではありません。ただ自身の文学観や実生活とのペース配分を考慮しながら創作活動をしているだけで、なぜこのような中傷をされなくてはならないのでしょうか。
 また、寄稿した歌人たちの作品を「今日仕入れることのできた六百個の石」と表現することは、その背後に確かにいる人間の存在を無視しています。特集の序文にランボオの「無検査のダイヤモンドの大売り出し」という文言を引用したことにも、同様の問題があります。

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さて、以上の二点を踏まえ、
私どもが「現代短歌」編集部の皆さまにお願いしたいのは以下の二点となります。

・本件の問題点を認識していただくこと
・「現代短歌」の誌面や現代短歌社ホームページなどに公式の謝罪文を掲載していただくこと

今回、短歌にかかわる方、またそうでない方も、44名からの署名が集まりました。
また、「現代短歌」編集部へのコメントも15件届きました。
これら、本メールにpdfファイルとして添付しております。
どうかお目通しいただき、
いち専門誌の編集後記に対してこれだけの署名が集まった意味、
そしてひとつひとつの署名の内容を真摯に受け止め、
短歌雑誌としての在り方を今一度お考えいただけませんでしょうか。

なお、このメールの文面はそのままブログに公開する予定です。
差し支えなければ貴社からの本件へのご回答も、ブログにて公開したく存じます。
そちらの可否につきましてもお返事いただけたらと存じます。

どうかよろしくお願いいたします。


二三川練
23riversren@gmail.com
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実際にはこの文面に集まった署名とコメントの一覧を添付しております。

そして、9月2日(木)に「現代短歌」編集部よりいただいたお返事に添付された回答が以下の通りになります。


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二三川練氏より2021年8月21日付で小社の代表メールにお送りいただいた
・本件の問題点を認識していただくこと
・「現代短歌」の誌面や現代短歌社ホームページなどに公式の謝罪文を掲載していただくこと
の2点に以下の文面をもって回答させていただきます。認識のずれを些かでも解消できれば、と考え、長くなりましたが、何卒ご容赦下さい。
 
わたしたちは生まれた瞬間から、生まれ落ちた社会の言葉を習得しはじめます。言葉は社会のコード(約束事の体系)そのものです。言葉を習得することは社会のコードを習得することに他ならず、言葉がその社会のコードを逸脱するとき、コミュニケーションは不全に陥ります(例えばレストランでは、「そこのソースの瓶をとって下さい」と言うべきで、「そこのソースだかガソリンだかわからない液体が詰まった瓶をとって下さい」と言ってはなりません)。
 わたしたちは言葉を使うことで、そのつど社会のコードの生成に寄与しています。いや、むしろガタリ風に言えば、わたしたちが発語するとき、発語の主体は、社会のコードの再生装置としてわたしたちのなかに組織された〈それ〉なのです。
 詩の言葉は、そのような言葉と別に存在するわけではありません。最近開かれたあるつどいで、ある詩人が「まだ使われていない言葉を書く詩人はいない、とぼくは考えています」と含みのある発言をされていましたが、詩は社会のコードそのものである言葉で書かれるのが原則です。
 その言葉がいかにして詩たりうるのでしょうか? 石はいかなるときにダイヤモンドの光を宿しうるのでしょうか? この点をめぐって、わたしがむかし読んで衝撃を受けたインタビューの一節を書き出しておきます。
アルトーはただの一度も裏切ることのなかった書き手だ。ロートレアモンをとってみても、『マルドロールの歌』は確かにすばらしいものだが、『ポエジー』には一種の裏切りが見られる。(略)ランボーのように裏切らなかった書き手、存在的な下降によって手に入れたものを市場で取引しなかった書き手はそんなにいるものではない」
             フェリックス・ガタリ宇野邦一(聞き手・訳) 「スキゾ分析の方へ」  「現代思想」 総特集ドゥルーズ=ガタリ1984年9月)
 ガタリによれば、ロートレアモンのある作品は石にすぎません。警戒せずに読めるテクストはアルトーランボーくらいだというわけです。これはアルトーに関する質問に答えたくだりで、世界の全文学を見渡してのコメントではありません(ドゥルーズ=ガタリカフカから多くの示唆を得たようです)が、きわめて高度な文学批評を見てとることができます。
 石が光を宿すことは稀ですが、その光を見逃さずに捉えるのが批評の役割です。一篇の詩の評価、また短歌作品一首の評価は、ダイヤモンドのようには鑑定士任せにできません。さまざま文学観、さまざまな短歌観にもとづき、さまざまな批評が機能するなかで、「裸の王様」の寓話のように皆がダイヤモンドだと信じている詩を石だと言う批評がありえますし、また逆に路傍の石のように忘れられた歌集にダイヤモンドの光を見出す批評が存在すべきです。詩人の書いたものを読むと、そのような望むべき批評が高い水準で機能しているのをときおり眼にします。かたや、短歌の、特に商業誌を開けば、そのような批評はほとんど見出せない状況に暗然たる思いがします。小誌「現代短歌」も例外ではありませんが、批評が十全に機能していないがゆえに「裸の王様」が跋扈しがちなこの状況をわたしはふかく憂えるものです。
わたしは小誌の編集人として、掲載作品が光を放つことを願っています。そのために、届いた原稿に最初の読者として私見を述べ、改稿を求めることもときにありますが、再び届いた原稿がどうであれ、校了日が来れば、その原稿を載せます。加えて、個々の歌人が誌面をどう捉えるかはそれぞれであり、推敲を重ねた末の張りつめた歌稿をつねに送ってくる方もいれば、連作の実験の機会と捉え、たとえ出来損なっても歌集に収める際に改稿すればよいと考える方もいます。それが商業誌のプラグマティズムであり、粒ぞろいのダイヤが並んでいるようなものではありません。一首一首の言葉が社会のコードにからめとられていないかどうかが検証されるのは、読者においてその言葉が再生されるまさにそのときであり、言い換えれば、作品の価値を評価するのは読者であり、読者による自由な批評が機能しなければならないと考えるゆえんです。
2021年9月号のアンソロジーの企画を立てながら、いつも以上の困難を感じました。いつもはその作者の作品が光を宿すのを一読者として経験した記憶をもとに原稿を依頼しますが、1990年以降に生まれた作者に限定すれば、母数が減ることもあり、その記憶は指折り数えるほどしかありません。改めて歌集や他の商業誌、結社誌、同人誌等、編集部の棚にあるものを引き抜いては読み、可能性を感じた方たちを含め、当初は55人で企画した枠を60人に増やしました。編集者としての責任を全うできていないことはむろん、自覚しています。編集者の責任において秀歌選を編むとすれば、中井英夫中城ふみ子を札幌の病室に訪ねたように、みずからの足で新人を発掘しなければなりませんが、そのような行動をわたしはほとんどとれていません。
しかし、ひるがえって考えれば、アンソロジーは秀歌選に限りません。アンソロジーとは「詩文などの選集。詞華集。」(広辞苑)、また詞華集とは「美しい詩文を選んで集めた書」(同)で、詩文の中でも特に美しいものを集めたというニュアンスがある一方、「美しい」は「詩文」の形容ともとれます。実際、『昭和萬葉集』『現代万葉集』等、その記録性に価値の軸足を置いて編まれたアンソロジーが存在します。記録性に徹するならば、60人の枠をさらに何倍かに増やさなければなりませんが、雑誌の一特集では紙幅に限界があります。他方、人選は恣意的であり、このアンソロジーが秀歌選として結果することを願いつつも、1990年以降生まれの60人が2021年に寄せた自選10首というその記録性に立脚せざるをえませんでした。雑誌の一特集として、秀歌選と記録の中に位置する新しいアンソロジーのかたちを模索できれば、と考えました。
そのためには、秀歌選の外観を剝がなければなりませんでした。60人のなかには商業誌において一定の評価を得ている方たちもおられますので、その評価をリセットするかのような外観を不当な扱いのように思われる方もいるかもしれません。しかし、一首一首の評価が自由な批評の風にさらされるべきなのは年齢やキャリア等にかかわらず、いついかなるときもそうですから、そのことへの理解は得られるものと信じました。
さて、9月号の校了が近づいた頃、デザイナーから特集のトビラを4ページにする提案があり、B5判1ページをテクストで埋めなければならなくなったとき、寄せられた600首についての価値評価をリセットしたまま長いリードを書くことは不可能に思えました。それで、60人の作者にエールを贈るべく、先行する作家たちが近い年齢の頃、何を考え、書いていたかをエピグラフとして置くことを思いつき、啄木、子規、茂吉、佐太郎、あるいはカフカの手紙や日記、またパスカルなどを渉猟しましたが、ピンとくるものがありませんでした。そのとき、ランボーがあの詩篇を書いていたことを、ふと思い出したのでした。
「大売出し」の制作年は特定されていませんが、みずからの詩が雑誌に載り、出版され、商品になることをモチーフしたもの、とされています。60人の作者のなかには、商業誌に作品を載せることへの抵抗やわだかまりをおもちの方がいるだろうと考え、また読者には「無検査のダイヤモンド」に本物の光を見出すのは読者自身であることを暗に伝えるべく、校了日が迫るなか、プラグマティックな判断としてこの詩篇を置きました。
編集後記を書いたのは校了後でした。わたし自身、むかし商業誌の新人賞に数回応募し、ふるいにかけられることへのネガティブな感情を経験しましたので、どうしても書かなければならないと考えたのは、この恣意的な選にもれた方に向けた言葉でした。実際、60人目と61人目に有意差があったわけではありません。60人の枠が埋まっていくなかで、「連絡先がわからない」「TwitterのDMにも無反応」だったがゆえに61人目になった方がいたのはおそらく事実です。日本のどこかでこのアンソロジーをひっそりと読むかもしれない中城ふみ子に向けて「きみの磨いた石を見せてほしい」と書きました。「石」と表現したのは、「無検査のダイヤモンド」を扱う商人にみずからを重ねるテクストを書くことで、宙に浮いたかたちになりそうなランボーの詩が生きると考えたからです。
テクストが拙かったがゆえに、傷ついた方がおられる状況は認識しています。しかし、短歌作品というテクストを生身の人間としての作者から切り離して読むことに習熟している世代の方たちが、ここで人間としての作者を持ち出すことがわたしには不思議でなりません。わたしの編集後記がテクストとして拙かった、そのことは認めますし、いくらでも批判なさって結構ですが、寄せられた作品の評価をリセットして読者に差し出す意志はあっても、作者を傷つける意志はわたしにはありません。
テクスト、あるいは広く芸術作品の表現が暴力性を孕み、結果として人を傷つけることはつねにありえます。しかし、それがメディアの謝罪や休廃刊につながったケースでは、アウシュヴィッツ、LGBT等、対国家的規模で明らかな被害者が存在し、メディアがその加害に加担しています。
関係者の複雑な心理がからんでいるという意味では、福島の「サン・チャイルド」像を撤去し、謝罪した美術作家のケースが近いようにも思いましたが、線量計がいたるところで数値を示し、テレビや新聞が日々報道し続けるなかで起きたことと本件を同一に論じることはできないだろうと考えます。
上記をお読みいただいて納得できない方がおられれば、そして、もしそのご希望があればですが、直接お目にかかって話をお聴きしたいと考えます。京都でも東京でも、他の地方都市でも結構です。真摯にお聴きするつもりですし、そのとき、必要と思われれば、その方には個別にお詫びします。
SNSがつくりだす共感という幻想に情緒的に身をゆだね、そこに一様な被害の実態があるかのごとくに仮構し、被害者団体をつくるかのようなこの行動はどこかが根本的にまちがっているとわたしは感じます。したがって、公式の謝罪の意志はありません。
 
2021年9月2日                                                                 「現代短歌」編集長  真野 少
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残念ながら、こちらの文面には認識の誤りが散見されると感じました。そのため、私からは以下のお返事をお送り致しました。

 

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「現代短歌」編集長
真野様


お返事が遅くなってしまい大変申し訳ありません。
また、この度はお忙しいところお返事をくださり、ありがとうございます。
残念ながら真野様の認識と私の認識とでは大きく違った点が複数見受けられますので、以下にその指摘をさせていただきます。

 

「編集者としての責任を全うできていないことはむろん、自覚しています。編集者の責任において秀歌選を編むとすれば、中井英夫中城ふみ子を札幌の病室に訪ねたように、みずからの足で新人を発掘しなければなりませんが、そのような行動をわたしはほとんどとれていません。」


まず、私が書いた「編集者の責任」とは「みずからの足で新人を発掘」するようなものではありません。アンソロジーにおいては編集部が選んだ書き手、そして選ばなかった書き手に敬意を示すことが私が書いた「編集者の責任」です。編集者が確信をもって書き手を世に送り出すことももちろん大事ですが、本件の問題点は編集者が「選ばなかった書き手」を貶し、またそれにより「選んだ書き手」をも貶めたことにあります。「雑誌の一特集として、秀歌選と記録の中に位置する新しいアンソロジーのかたちを模索できれば」と書かれていますが、アンソロジーの恣意性が外的要因によるものであると公言して憚らないのであればそもそもアンソロジーを編むに足る資格が無いのではと考えます。

 

「わたし自身、むかし商業誌の新人賞に数回応募し、ふるいにかけられることへのネガティブな感情を経験しましたので、どうしても書かなければならないと考えたのは、この恣意的な選にもれた方に向けた言葉でした。実際、60人目と61人目に有意差があったわけではありません。60人の枠が埋まっていくなかで、「連絡先がわからない」「TwitterのDMにも無反応」だったがゆえに61人目になった方がいたのはおそらく事実です。」

 

選にもれた書き手への「ネガティブな感情」に向けた言葉が、なぜ「不満顔のきみのために理由を書こう」となるのでしょうか。また「おそらく事実です」と書いておられますが、ではなぜ編集後記には「きみの連絡先がわからない。TwitterのDMにも無反応だ。」と断定形で書かれているのでしょうか。そして、「最近のきみは同人誌でも存在感が薄く」や「人に見せたいが、市に並べて値踏みをされるのは御免だという気持ちはわかる」といった決めつけ、挑発のような文体になるのはなぜでしょうか。直後に「テクストが拙かった」とあるため真野様ご自身もこれらの問題点は認識されていることとは存じますが、矛盾を感じたため指摘させていただきます。

 

「短歌作品というテクストを生身の人間としての作者から切り離して読むことに習熟している世代の方たちが、ここで人間としての作者を持ち出すことがわたしには不思議でなりません。わたしの編集後記がテクストとして拙かった、そのことは認めますし、いくらでも批判なさって結構ですが、寄せられた作品の評価をリセットして読者に差し出す意志はあっても、作者を傷つける意志はわたしにはありません。」

 

僕自身はテクスト読解に懐疑的な立場の人間ですが、テクスト読解を支持する立場から読んだとしても、この文言には疑問を抱くと思います。
テクスト読解とは作者と作品を切り離す考え方であると理解していますが、その考え方に立ったとしても、作品の倫理的問題の責任から逃れられるわけではありません(そもそも編集後記は作品ではないのでテクスト読解の論理を当てはめようとすること自体にも疑問があります)。この文言における「テクスト読解」は、書いたことの内容に対する責任から逃れたいがための方便に過ぎません。
そして「作者を傷つける意志はわたしにはありません。」とありますが、他者への加害において加害の意志があったかどうかは問題ではありません。傷つける意志がなくとも、真野様の認識されているように、テクストとして拙かったがゆえに憤りや悲しみを抱いた方が多くいたことが本件の問題点です。

 

「テクスト、あるいは広く芸術作品の表現が暴力性を孕み、結果として人を傷つけることはつねにありえます。しかし、それがメディアの謝罪や休廃刊につながったケースでは、アウシュヴィッツ、LGBT等、対国家的規模で明らかな被害者が存在し、メディアがその加害に加担しています。
関係者の複雑な心理がからんでいるという意味では、福島の「サン・チャイルド」像を撤去し、謝罪した美術作家のケースが近いようにも思いましたが、線量計がいたるところで数値を示し、テレビや新聞が日々報道し続けるなかで起きたことと本件を同一に論じることはできないだろうと考えます。」

 

そもそもこれらの例は真野様が突然挙げたものであり、私は本件とこれらの件を同一に論じておりません。個別の件として問題提起をしております。

 

「上記をお読みいただいて納得できない方がおられれば、そして、もしそのご希望があればですが、直接お目にかかって話をお聴きしたいと考えます。」

 

先に「中井英夫中城ふみ子を札幌の病室に訪ねたように、みずからの足で新人を発掘しなければなりません」と書かれておられましたので真野様からすればこれは当然の対応なのかもしれません。しかし、一般的に権力関係における権力者による「直接話したい」という表明は相手に対して圧力をかける行為となります。「ご希望があれば」と書かれていますしこちらの文面を見て希望される方もいらっしゃるかもしれませんが、少なくとも私は直接の対話ではなく文面上のやり取りであるがゆえに過剰な恐怖心を抱かずに済んでいるということをご理解いただけたらと思います。

 

SNSがつくりだす共感という幻想に情緒的に身をゆだね、そこに一様な被害の実態があるかのごとくに仮構し、被害者団体をつくるかのようなこの行動」

 

本件における私の文面や署名コメントを読んだ上で「情緒的に身をゆだね」ているのだとお考えなら、それは大きな誤りです。人それぞれに感じ方はありますので「一様」だとは思いませんが、私を含め本件でショックを受けた方々はみな紛れもなく被害者です。個人的には「被害者団体」を作ったのではなく、被害を受けたと感じた方々や今後の被害を未然に防ぎたい方々の声をまとめただけという認識です。どちらにせよ、「被害の実態があるかのごとくに仮構し」ているという認識は大きな誤りです。

真野様は、自身の編集後記について「テクストが拙かったがゆえに、傷ついた方がおられる状況は認識しています。」と書かれています。しかし、その一方で「被害の実態」が「仮構」だとも書かれています。これは明らかな矛盾です。
また、私の行動に誤りがあると思うなら「どこかが根本的にまちがっている」といった曖昧な書き方をせず、はっきりとその問題点を書いていただきたいです。私も真摯にお答えしたいと考えております。

長くなりましたが、どうか真摯に受け止めていただきたいです。
また、いただいたお返事はこのメールを送信後に、私のこの文面と共に全文掲載致します。次のお返事をいただける場合にも、全文掲載のご許可をいただけたらと思います。
どうかよろしくお願い致します。

 

二三川練
23riversren@gmail.com
――――――――――

 

以上のお返事を先ほど送信致しました。
またお返事をいただきましたら、掲載許可をいただいた場合に限りこちらのブログに掲載致します。

引き続き、よろしくお願い致します。

 

 

【追記】2021.09.14

 

上記のメールを送信後、およそ一時間後に以下のお返事をいただきました。

 

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二三川練さま

ご返信、拝読しました。この、ずれという以上の断絶が、メールの

やりとりで解消するはずもありませんので、思うところはありますが、

これ以上のご返信は控えます。

どうぞ、全文を掲載いただき、存分にご批判なさってください。

真野

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このような形で終わらせられたことは非常に不満ですが、誠実な返答が望めない以上こちらからの応答はもうしません。不満は残りつつ本件は終了となりますが、せめて多くの方にこの現状を認識していただくことで今後の短歌を取り巻く状況が変化していく可能性というのは十分にあると考えます。

本件に協力してくださった皆様、本当にありがとうございました。