灰の森通信

二三川練の感想ブログ

舞台『染、色』を見た話―加藤シゲアキ作品における自己変革と他者の問題―

(この記事は7月下旬に書いたものですがいろいろありまして本日の投稿となりました。そのため情報の不足などあるかもしれませんがご了承ください)

 

 舞台「染、色」の配信を観た。これはNEWSの加藤シゲアキによる短編集『傘をもたない蟻たちは』(2015年6月 角川書店)収録の短編「染色」を原作とした舞台である。当短編集は2016年にドラマ化されているが、そのなかに「染色」は含まれていない。そのため、この舞台が初めての他媒体化となっている。公演自体は2020年の予定だったがコロナ等の影響により延期し、今年になってようやく上演できたというわけだ。

 僕が『傘をもたない蟻たちは』を読んだのは数年前のことだ。この短編集は加藤の他の書籍(と言っても、僕が読んだのは『ピンクとグレー』『できることならスティードで』『オルタネート』のみだが)と比べるとレトリックに過ぎるものであった。やりたいことが先行し、作り物感が否めない。「染色」はそのなかでも作者の思想が表れた良作ではあったが、結末における主人公の行動は全く理解できなかった。そもそも僕は創作の衝動を性的衝動に置き換える行為が好きではないため、本作品に対してもどこか冷めた気持ちになってしまったのだ。今あらためて読み返しても居酒屋でスプレーを吹きつけたり多目的トイレで性行為したりと、細かい部分がどうしても気になり入りこむことができなかった。

 そのため舞台「染、色」にも正直なところ期待していなかったのだが、観ているうちにこれは「染色」とは全くの別物であると気づいた。登場人物の名前や設定の大幅な変更に加えストーリーも大きく変わっており、これが2020年の公演に向けて書かれた「新作」であると理解したのだ。そのストーリーや演出に一気に引きこまれ、鑑賞後はただ呆然とし、しばらく眠ることもできなかった。早い話、この舞台を通して自分が「からっぽ」であるという事実を突きつけられたのである。今日は舞台「染、色」の感想を、加藤シゲアキの他の作品評と合わせて書いていこうと思う。

 

 加藤シゲアキジャニーズ事務所に所属するアイドルグループ「NEWS」のメンバーである。NEWSは2003年に9人組としてデビューし、メンバーの脱退を経て2011年からは4人体制となる。このとき、加藤は名義を「加藤成亮」から「加藤シゲアキ」に変更している。その後2020年にさらに一人のメンバーが脱退し、現在は3人体制での活動となっている。

 そして加藤の著作を並べると以下のようになる。

 

『ピンクとグレー』(2012年1月 角川書店

閃光スクランブル』(2013年11月 角川書店

『Burn. ―バーン―』(2014年3月 角川書店

『傘をもたない蟻たちは』(2015年6月 角川書店

『チュベローズで待ってる【AGE22・AGE32】』(2017年12月 扶桑社)

『できることならスティードで』(2020年3月 朝日新聞出版)

『オルタネート』(2020年11月 新潮社)

 

 このうち『できることならスティードで』はエッセイ集であり他は全て小説である。最新の著作である『オルタネート』は第42回吉川英治文学新人賞を受賞するなど、メディアにも大きく取り上げられている。本記事では僕が実際に読んだ『ピンクとグレー』『傘をもたない蟻たちは』収録の「染色」、『オルタネート』に触れたいがその前にもう一点触れておきたいものがある。それは、加藤のソロ曲である。

 加藤のソロ曲は全て加藤が作詞作曲に携わっている。そこには、アイドルとしてファンを魅了するための大衆性と個の内面を深めていく文学性との融合――中層の表現としての詞、及びライブにおける演出が存在するのである。特に僕が取り上げたいのは、アルバム『NEVERLAND』収録の「あやめ」以降の4曲である。以下に発表年月と共に列挙しよう。

 

「あやめ」(作詞・作曲 加藤シゲアキ、編曲 芳賀政哉・中西亮輔)――アルバム『NEVERLAND』(2017年3月)収録

「氷温」(作詞・作曲 加藤シゲアキ、編曲 高橋諒中西亮輔)――アルバム『EPCOTIA』(2018年3月)収録

「世界」(作詞・作曲 加藤シゲアキ、編曲 中西亮輔)――アルバム『WORLDISTA』(2019年2月)収録

「Narrative」(作詞・作曲 加藤シゲアキ、編曲 加藤シゲアキ中西亮輔)――アルバム『STORY』(2020年3月)収録

 

 『NEVERLAND』から『STORY』は頭文字を繋げると「NEWS」になるという、4連続のコンセプトアルバムとなる。余談だが、僕がNEWSにハマったのは同居人が観ていた『NEVERLAND』のライブBDを横目で観たことをきっかけとする。当時あまりアイドルに興味が無かった僕は、テレビ画面から流れてくるアルバムリード曲「NEVERLAND」の荘厳さに惹かれたのである。なによりNEWSは歌が上手かった。ちらと画面を見やると、透きとおりながらも力強い歌声を持つ赤髪の美青年が、かわいらしく親しみやすい笑顔から気高い王族のような顔へと表情を変化させラスサビへと向かっていった。それが増田貴久にオトされた瞬間である。

 

 この4つのコンセプトアルバムはある流れに沿って作られている。NEVERLANDという空想の世界の案内人であるNEWSが様々なエリアへ僕たちを導く『NEVERLAND』。EPCOTIAライナーという宇宙船に乗って乗務員であるNEWSと共に宇宙旅行を楽しむ『EPCOTIA』。この2つはどちらもNEWSが僕たちファンを別世界へ導くというものである。それが空想の世界から宇宙という現実にも存在している世界に移行していることは留意しておくべきことだ。

 続いての『WORLDISTA』は特殊なVRゴーグルを装着することでWORLDISTAという世界に僕たちが入り、NEWSと共に様々なゲームに挑戦するというコンセプトになっている。WORLDISTAのなかでは想像した世界が全て体験でき、NEVERLANDやEPCOTIAの世界も再現できることがアルバム中で明言される。つまり、世界を受動的に案内される側だったファンが能動的に世界を遊び、想像/創造していくというコンセプトとなっている。この時点でこれまでの2つのアルバムで描かれた世界を空想上の存在として再定義することによって、僕たちを徐々に現実世界に戻していくのである。『EPCOTIA』のリード曲「EPCOTIA」に「絵空事なんかじゃない 僕らは此処にいる」という歌詞があるが、これは虚構の世界が現実世界をも乗り越えて僕たちの真に迫るということを示唆しているように感じられる。

 さて、最後の『STORY』ではNEWSが世界を案内するというコンセプトではなく、NEWSそれぞれの「物語」が語られる。また、収録曲の「君の言葉に笑みを」ではファンから寄せられた将来の夢を語る音声が散りばめられており、僕たち自身が「語る側」に来たことを示唆されている。虚構の世界から現実の世界へ、世界を語られる側から世界に参加し語る側へと、4年かけてファンを導いてきたというのが僕の解釈となる。

 これを踏まえると、加藤のソロ曲「あやめ」から「氷温」「世界」「Narrative」の流れとこの4アルバムの流れのリンクを示すことができる。今回は特に「語る」ことの文脈に置くことができる「あやめ」「世界」「Narrative」について述べていく。

 まずは「あやめ」の歌詞を見ていこう。

決して空想 夢想の彼方

今だけは キスしてよ

世界は 光の地図を求める

だから僕は生きていく

(中略)

ゴッホも描けないほどの 愛の美しさを

あなたと手をつなぎ重ね重ね塗り描いてこう

空から落ちる蜘蛛の糸

んなもんいらねぇ飛んでやらぁ

 「あやめ」では「光の地図」を求める「世界」のために「僕」が「生きていく」という構図が提示される。さらに、「あなた」なる存在と手を取りながら「重ね重ね塗り描いてこう」というのは舞台「染、色」における深馬と真未の関係――後に詳しく言及するが、加藤作品における「私」と「あなた」の接触によって「私」が自己変革を遂げるという構図と一致する。天を超えるのに必要なのはどこからか伸ばされた「蜘蛛の糸」ではなく確固とした「あなた」という存在なのだ。この点で、「あやめ」はアイドル的なラブソングと作家的な文学性を両立した楽曲であると言うことができる。

 続いて、「語られる側」から「語る側」へと人々を導く『WORLDISTA』及び「STORY」に収録された「世界」と「Narrative」の歌詞を見ていこう。

この手に情けない生き様を握りしめ

誰にも託せぬ夢ばかり

刃を抱く覚悟はあるのかと

問いながら歌う

 「世界」のサビにあたるパートである。これは加藤の作家として、そしてアイドルとしての自己認識と覚悟を自らに向けた言葉であると解釈できる。「情けない生き様」であっても「握りしめ」て語っていかねば「夢」には至れない。「あやめ」では「飛んでやらぁ」と言えたがここでは「刃を抱く覚悟」を己に問うている。「握る」ではなく「抱く」なのは、自らを語る行為がある種の暴力であることを認めると同時に、自分自身をも傷つけるものであると理解しているからだろう。

 この、自らを語る行為の暴力性については続く歌詞で言及されている。

どこかで生きてる誰かに悩んで

どこかで生きてる誰かに頼って

どこかで生きてる俺も誰かでどうすりゃいいの

 自らを語ることは、すなわち「私」ではない他者=「あなた」を語らないということである。振り返れば、「あやめ」における「あなた」は「僕」の自己変革のための舞台装置と化してしまっているのである。つまり、「私」と「あなた」が「私――達」になれない個の時代において、いかにして「あなた」を語ることができるのかという苦悩がここにはある。これも、作家として個の内面を深めながらもアイドルとして大衆に影響を与えんとする存在としての、加藤の自我の問題が垣間見えるのではないだろうか。

 そして、「世界」ではこの苦悩に対しての結論が出される。それが以下に記す最終部の歌詞である。

この手に情けない生き様を握りしめ

誰にも託せぬ夢ばかり

諦めるにはまだ早すぎるだろう

ひたすらに走れ

求めていたのは愛じゃなかったか

求めていたのは夢じゃなかったか

求めていたのは魂じゃなかったか

 

世界はここにある

 

貴様が世界だ

 

 この「貴様」には「私」と「あなた」のどちらも当てはまると解釈することができる。「貴様が世界だ」と言うフレーズは、あらゆる「あなた」を連れて「ひたすらに走」るという「私」の決意表明でもあり、「あなた」のことは「あなた」が語るべきだという結論でもある。「あやめ」において「世界は 光の地図を求める/だから僕は生きていく」と歌っていたが、その世界こそが「貴様」=「私」であり「あなた」であるという新たな結論が出ているのだ。「あなた」のことは「あなた」が語るべきだというのは一見すると突き放しているようだが、そうではない。寧ろ、「あなた」が奮い立ち「あなた」の言葉を取り戻すことによって、ようやく「私――達」になれるのではないか、という期待感があるように僕には思えるのである。「求めていたのは……」のパートも、自らが初心に還ると共に、「あなた」の初心を思い出させ奮い立たせるための言葉ではないだろうか。

 続いて、「Narrative」では「僕」や「俺」といった一人称代名詞が消え命令形の言葉が目立つ。これも、「私」と「あなた」の同一化として捉えることができる。

願いを網膜に刻んでく 呼吸の線

光の輪郭をなぞる 夜空の色を 教えてくれよ Lord

(中略)

奏でる熱狂 列島絶叫 反動禅問答

Ok go your way 自由に叫べ 気の済むまで

(中略)

もてあます衝動 語り尽くせる者

その目で見たものをひたすらにとき放て

未完成の声届けて ページを開いてゆく

 narrativeとは「物語」の意であるが、storyと違い語り手を主体に置いた概念である。人々を「語る側」へと移行させるアルバムのコンセプトに沿った曲名であると言えるだろう。「未完成の声」であることを示すかのように歌詞は全体的に抽象的だ。「教えてくれよ」「自由に叫べ」「ひたすらにとき放て」といった命令形は、やはり「私」と「あなた」の双方に向けられたものだと言える。そういった意味で「Narrative」は「世界」の続きであり、「語る」ことと「語らせる」ことの重要度が加藤のなかで等質になっているのではないかと推測できるのだ。

 個の時代において必要なのは代弁者ではない。現代は既にそれぞれの「あなた」がそれぞれの言葉で「あなた」を語るべき時代なのである。このとき、言葉が常に借り物であるがゆえに「私」を語る言葉が「私」から遠ざかってしまうという問題も発生するが、それについては本論のテーマから外れてしまうため触れないでおこう。

 いかにして「あなた」に「あなた」を語らせるか。それにはまず、あらゆる作品を自分事として鑑賞してもらう必要がある。そう考えると、演劇というジャンルは書籍よりも鑑賞者との距離が近く、作品を自分事として捉えやすいかもしれない。僕が舞台「染、色」の鑑賞後に呆然としてしまったのは、配信で観たとは言えそのような作用が働いていたのだろう。この意味においても、舞台「染、色」は加藤シゲアキ作品の1つの到達点では無いかと僕は思うのだ。それを示すために、ここからは加藤シゲアキの文学性――マイノリティへの意識と、他者と繋がることでの自己変革について述べていこう。

 

 加藤シゲアキ作品を語る上で外せないのはマイノリティへの意識である。このマイノリティとは、凡人にも突出した天才にもなれなかった宙吊りの存在としてのマイノリティである。『ピンクとグレー』の主人公である河田大貴は芸能プロダクションに所属したが有名人にはなれず、小さな仕事ばかり続けている。『オルタネート』の主人公の一人である新見蓉は料理屋の娘であり料理を得意とするが、高校生の料理コンテストである『ワンポーション』での失敗を常に引きずっている。そして舞台「染、色」の主人公である深馬は周囲から高く評価されている絵描きの美大生だが、自身では作品に納得できず、「完成」させられないことにもどかしさを感じている。

 2016年の加藤のソロ曲である「星の王子さま」(アルバム『QUARTETTO』収録)には、これらのマイノリティを象徴するような歌詞が存在する。

秋に咲いた不時の桜は

次の春も咲けるのだろうか

 これは舞台「染、色」のなかにも登場したフレーズである。この「桜」は秋に咲いたという点で特別かもしれないが、それよりも咲くべきときに咲けるのだろうかという不安感が先立っている。いわゆる「普通」では無いが、突出した「特別」にもなれない。だが、いまさら「普通」にも戻れないという苦悩がここに表れている。

 ところで、NEWSが4人体制だった頃のメンバー作詞曲である「Strawberry」(2019年)には、加藤の担当パートで次のような歌詞がある。

季節外れの9月のイチゴ

誰にも真似できない思い出の味

 僕はここにも同様の意識を見た。しかしこの歌詞はNEWSがデビュー15(イチ・ゴ)周年を迎えたこと、デビューが2003年9月15日だったこと、そしてメンバーが脱退し4人体制となった際に「イチゴの無いショートケーキ」などと揶揄されたことが背景にあるようだ。どちらも季節外れの存在を題材としながらソロ曲では「次の春も咲けるのだろうか」と不安を露わにし、全員の曲では「誰にも真似できない思い出の味」と肯定的に捉えている点に、加藤の人柄が見えるようである。もちろんこれはデビュー日と重なったことによる単なる偶然だが、結果的にこのような対比が生まれているのは面白い。

 もう少しだけ脱線させてほしい。マイノリティという言葉が出た以上、セクシュアルマイノリティについての言及は避けられない。特に加藤は『NEVERLAND』のライブツアーにて「あやめ」を披露した際、最後の「虹を歩いてく」の歌詞とともに、自身を「民衆を導く自由の女神」に見立てて(おそらく自身のラジオにて言及)レインボーフラッグを掲げるという演出を行った。この意図についてもラジオにて言及しているかもしれないが、僕はその回を聴いていないので一人の鑑賞者として感じたことを書いていきたい。

 レインボーフラッグはセクシュアルマイノリティの尊厳と社会運動を象徴する旗である。日本でもレインボープライドのパレードなどで目にすることが多いだろう。それをアイドルがライブで掲げたというのは意義あることであると感じる。レインボーフラッグの文脈で「あやめ」を聞くと「青と藍と紫のボーダーライン/見極めるなんてできないんだ」という歌詞から性のグラデーションが想起される。

 加藤がメンバーの小山慶一郎と共に出演していた「NEWSな2人」というテレビ番組では2015年にセクシュアルマイノリティへの密着取材を行ったようだ(参照:https://dogatch.jp/news/tbs/35363/detail/)。これを踏まえた上で加藤がレインボーフラッグの意味を知らないということはあり得ないだろう。また、『できることならスティード』でにて「#MeToo」運動やLGBTQについて言及した「ニューヨーク」は「小説トリッパー」2018年春号が初出であり、これは『NEVERLAND』ツアーの後のことである。「あやめ」でレインボーフラッグを掲げたことを新たなきっかけとしてセクシュアルマイノリティへの関心が高まったと見てもいいのではないだろうか(後にシゲ担の友人から聞いたところ、この番組でLGBTsフレンドリーの不動産会社である「IRIS」と関わり、それが「あやめ」の制作時期と重なったことで感じるものがあったようだ。アイリスはあやめの英名である)。

 正直なことを言えば、これまでセクシュアルマイノリティの運動に対して目立って支持を表明してきたわけでも無い加藤が、「民衆を導く自由の女神」を模してレインボーフラッグを掲げたことに僕は疑問を抱いている。早い話が、強者による「弱者に目を配っている」というある種のポーズ(そう、まさに東京五輪の開会式に象徴されたような)と取られても仕方がないのではないかと感じている。もちろん、その後の「ニューヨーク」の記述や『EPCOTIA -ENCORE-』のライブにおけるソロ曲「カカオ」でヒールを履くという演出からも、加藤自身が性――この場合は性表現――に目を向けていることは一目瞭然である(「カカオ」の演出については自身のラジオにて「ヒールは女性が履くもの」という固定観念を変えたいと語っていた)。おそらくは事務所の意向や芸能人であるという立場上は大っぴらに明言できないところはあるだろう。それを踏まえ、一ファンとしては「あやめ」や「カカオ」の演出をある種の意志表明として支持したいと考えている。

 ところで、加藤にはマジョリティという立場からマイノリティを見つめるという構造への疑問があるのではないかと僕は推測している。

 『オルタネート』には「ダイキ&ランラン」というコンビで動画を配信しているゲイカップルが登場する。2人は高校生限定のマッチングアプリ「オルタネート」で出会い交際に発展した。その2人を見つめる本作の主人公の1人である伴凪津の視点を引こう。

 

凪津も彼らのことが好きだった。でもそれは動画が面白いだけじゃない。彼らを見ているとオルタネートの素晴らしさを実感できる。同性愛者の高校生が恋人を作ることは決して簡単ではないはずだ。彼らを救ったオルタネートの存在価値。それを噛みしめられるから、凪津は「ダイキ&ランラン」を応援している。

(中略)凪津は彼女の後ろを追いながらもう一度「ダイキ&ランラン」に目をやった。二人はキスをしている。オルタネートありがとう、と凪津は彼らの代わりに呟いた。(加藤シゲアキ『オルタネート』新潮社 2020年 33頁)

 

 重要なのは、オルタネート信奉者である凪津がオルタネートを肯定するための道具として2人を見つめていることに無自覚であることだ。オルタネートによって確かに2人は救われたかもしれないが、それをマジョリティの視点から「彼らを救った」や「彼らの代わりに」お礼を言うというのはあまりにも傲慢な態度である。つまり、凪津や恐らくは凪津を含む多くのファンは彼らが「ゲイだから」好きなのであり、そのような過剰な持ち上げは差別に他ならないのである。2人は結局、大勢の他者に見られ消費されることに疲弊して別れてしまう。もちろん、ヘテロカップル配信者でも消費に疲れて別れることはあるだろうが、2人の場合はゲイであるがゆえに過剰に注目されたことが原因の1つであると言っても過言ではない。ここに、マジョリティがマイノリティを応援するつもりで過剰に特別視して逆に差別になってしまうという、加藤の問題意識が描かれている。支援する必要がありながら過剰に特別視はしてはならない。アイドルという立場から良きallyでいるためにはどうすればよいのか。好意的に見れば、そんな苦悩を加藤が抱えていると見ることもできるだろう。テレビで話している姿を見るとヘテロセクシズムを感じることもあるため、やはりそれは「好意的な見方」かもしれないが。

 さて、いささか脱線が過ぎた。ここからは、加藤作品における他者と繋がることによる自己変革について述べていこう。

 

 『ピンクとグレー』と舞台「染、色」に共通するのは作品の「完成」が「死」と直結していることだ。『ピンクとグレー』の"ごっち"は死をもって俳優としての「白木蓮吾」を完成させた。また、"ごっち"の姉も死をもって自身の作品を完成させた人物である。「染、色」でも「絵を完成させることは死ぬことだ」と明言される。両作品の違いは、『ピンクとグレー』の河田は自らも死に向かっていくことに対し「染、色」の深馬は「完成」=「死」へと導く存在であった真未の消滅によって生へと進んでいく点である。なお、河田の場合は作品の「完成」に向かうのもそうだがそれ以上に親友の"ごっち"と「繋がる」ために死に向かっていったという点は留意しておきたい。

 『ピンクとグレー』では親友になりきることで親友の心と「繋がる」過程が描かれるが、『オルタネート』では「私」と「あなた」の間にある断絶が描かれる。その断絶を前提とした上で、様々な形の対話を通して「私」の自己変革が行われるというのが『オルタネート』の構造であると言えよう。

 そして舞台「染、色」では、この自己変革のきっかけとなる「あなた」は「私」の内面にこそいるのだと描いているのだ。まさに「世界はここにある/貴様が世界だ」とでも言いたげな結末であり、「天才になれない私」と「平凡ではない私」との間で苦しむ深馬が最後に求めたのが等身大の深馬を尊重している杏奈だったというのは象徴的である。また、マニック・ピクシー・ドリーム・ガールである真未が深馬の内面の存在であり、また真未自身にも確かな内面が存在していたことを僕は評価したい。深馬と真未が「6本目の指」の名前を決める場面は深馬にとっての「6本目の指」である真未が内面に在りながらも捉えられない存在であることが描かれ、さらに言えばタイトルである「染、色」の読点も原作に加えられた「6本目の指」として読むことができるのだ。

 舞台「染、色」は、才能はあるが突出した天才にはなれない深馬が、等身大の自分――現実を受け止める物語であると言える。この「現実を受け止める」とは決してネガティブな意味ではない。寧ろ深馬が前に進むためには必要なことであり、特に「個」の時代にあっては等身大の「私」が等身大の「私」を語ることに意義があるのだ。真未――深馬が自身のキャンバスを破壊する行為は突出した天才への憧憬を断ち切る行為でもある。そして、深馬は「完成」――「死」に向かうことなく自己変革へと向かっていくのである。

 「染、色」の特徴は深馬の自己変革を最後まで描かなかった点にある。深馬が描く突出した天才の象徴である真未と対話した深馬は、結果として真未との決別を迎える。そしてその自己対話の果てに深馬が求めたのが杏奈である。対話すべき「あなた」は自分の内面にしか存在しないが、それでも「私」には他者である「あなた」が必要だというのがこの作品の結論であると言えるだろう。そして、これはこれまでの加藤作品の流れを踏まえると一つの到達点に達したのだと見ることができる。

 

 過去の記事でも何回か言及してきたと思うが、自己変革と他者の問題は人間にとって最重要のテーマではないかと僕は考えている。加藤シゲアキはアイドルと作家という2つの職業を生きることで同様の問題意識を抱えたのではないかと思う。その根底にあったのは、凡人でも無ければ突出した天才でも無い自己の問題であったと考えられる(特に小説を書くきっかけになったエピソードにそのコンプレックスが表れている)。そして様々な作品を経て舞台「染、色」という個の内面を深める作品へと至ったことに、僕は創作者として深く共感し、同時に自己対話の必然性を突きつけられて衝撃を受けてしまったのだ。

 もちろん、この作品にも批判したい点はある。多指症という実在する疾患に神聖性を付与してしまった点や、深馬と真未の共同制作の場面を性行為を彷彿とさせる演出で描いた点などである。これらは極めて前時代的な価値観であり批判に値する。だが、それを差し引いても僕が本作に抱いた感動は計り知れないものであり、その晩に眠れなくなってしまったという事実を根拠に高く評価したいと考えている。

 NEWSは4連続のコンセプトアルバムを終え、1つの節目を迎えたと言っていいだろう。舞台「染、色」以降、加藤シゲアキがどのようなソロ曲を制作するのか、またどのような小説を書くのか、目を離さずしっかりと見届けていきたい所存である。

 

 

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