灰の森通信

二三川練の感想ブログ

【一首評】死後の町に回り続ける観覧車、音がなくなってたくさん笑う/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

死後の町に回り続ける観覧車、音がなくなってたくさん笑う/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

 

 連作「ハローワールド」より。句切れは読点の一箇所。読点の句切れは上の句と下の句を切りながらも散文的な繋がりを保持しようとするある種暴力的なレトリックである。私は普段こういった読点を使うことはないが、上の句と下の句を作者の望む距離に置くための手法として重要なものだ。

 「観覧車」は短歌において一定の詩情を生み出すアイテムとして重宝されている。この「観覧車」は「死後の町」に置かれているが、これは「死者たちの町」とも取れるし「滅びた町」とも取れる。死者たちを乗せる観覧車あるいは誰も乗せず誰からも忘れ去られた観覧車。この二通りの読みが発生することで、この歌のなかで彼岸と此岸が交差する。

 上の句の具象表現に対し下の句は具象度が少し下がる。「音がなくなってたくさん笑う」のは不思議と「わたし」と「きみ」の両名であるように思えた。もちろんそれは連作や歌集の流れを汲んだ読みであり、「わたし」一人の世界として読むことも十分可能である。だが、「音がなく」なるという感覚の欠落を共有することで「わたし」と「きみ」が初めてこの「観覧車」に乗れるという、けして叶わない夢想がここにはあるように思えるのだ。