灰の森通信

二三川練の感想ブログ

【一首評】水槽の匂いの駅に気づくときわたしまみれのわたしのまわり/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

水槽の匂いの駅に気づくときわたしまみれのわたしのまわり/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

 

 連作「八月三十二日」より。夏休みの幻の続きを表すかのような連作タイトルである。この一首は細かい修辞が特徴的であり目を引いた。

 まず「駅の水槽の匂い」ではなく「水槽の匂いの駅」とすることで「気づく」の対象が「匂い」と「駅」に分散され、嗅覚と視覚の共感覚的表現となっている。また、「水槽の匂い」とは水槽そのものではなくそこにあった水や草、そして生物たちの残滓の匂いである。生命の残滓は死のイメージを喚起する。そして「駅」と「水槽」が箱型の物体という共通点を持つことで、そこに行き交う人々に水槽の魚という暗喩が付与される。語順と暗喩の妙が光る上の句である。

 そして下の句は音と意味の面白さが両立している。音の面白さについては言うまでもないが、「わたしのまわり」が「わたしまみれ」というのは身体を拡張する表現でもあるし、逆に精神的な閉塞感を表現してもいる。重要なのは「まみれ」という表現である。ネガティブなニュアンスも強く持つこの表現を用いることで、下の句の感傷に幅が生まれているのだ。

 ともすれば抽象的に過ぎてしまうようなこの一首は、細かく行き渡った修辞の妙によって詩的強度を保っている。上の句と下の句で異なる手法を用いている点もバランスが良い。完成度の高さで言えばこの歌集で最も良い歌ではないだろうか。