灰の森通信

二三川練の感想ブログ

【一首評】鍋底の殻の割れ目のびゅるびゅると溢れる白身 生きていたこと/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

鍋底の殻の割れ目のびゅるびゅると溢れる白身 生きていたこと/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

 

 連作「天才じゃなくても好き」より。句切れは全角スペースの一箇所。

 ゆで卵を作る際、鍋に入れた卵の殻が割れ、白身が「びゅるびゅる」と溢れることがある。語順の操作により、卵であることを推測させながら「白身」まで読むことでようやく卵であることが明らかになる点に読み応えがある。その上の句に「生きていたこと」という下の句をあてることで、上の句の「びゅるびゅる」に生命の残滓を感じさせ、そのグロテスクさを実感させる。またこの歌の二首前には「ともだちが生き返るよりわたしが死ぬほうがはやいか 牛乳198円(いちきゅっぱ)の日」が置かれており、「生きていたこと」が友人も指しているとわかる。死はグロテスクに、そしてやがて死を迎える生命もグロテスクに陰鬱に描くのがこの歌集の特徴と言えよう。

 ところで、「卵」に生命や死の暗示を見る短歌は割に多い気がする。ただ、そのなかで卵が無精卵であることに言及している短歌はどれだけあるのだろうか。画像を見たくないため調べることもできないが、どこかの国では少しだけ育った有精卵を食べるという話も聞いたことがある。より正確に生と死の混在を望むならばそれがふさわしいであろうが、日本人として生きてきたことが前提となるならばたとえ無精卵であっても「卵」で問題ないだろう。この「びゅるびゅると溢れ」てきたのがどろどろのひよこでなくてよかったと思う。