【一句評】なりゆきで寂しくなった楕円形/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)
なりゆきで寂しくなった楕円形/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)
寂しくなったのはこの楕円形だけだろうか。それとも、全ての楕円形は実は寂しかったのだろうか。僕は後者の読みを選びたい。言われてみれば楕円形とはどこか寂しい形のような気がする。整った形だというのに真円を押しつぶしたような歪みが感じられる。この「真円を押しつぶした」というのが「なりゆき」だろうか。いや、そうとも限らない。この「寂しくなった」というのは形の話ではなく、楕円形の自我の話かもしれない。「寂しい」という情緒に「楕円形」という歪ながらも整った幾何学の存在を取り合わせるのは非常に面白い。寂しさの由縁を「なりゆき」とだけ記すのもちょうどいい塩梅の余白と言えるだろう。
川柳の余白は、付句への志向と言い換えてもいいかもしれない。もちろん作品にもよるだろうが、この句は読めば読むほど七七を付けたくなってくる。川柳はそれ自体独立した形式であるが、その発祥を考えれば付句をつけたくなるのも当然かもしれない。
なりゆきで寂しくなった楕円形 樋口由紀子
一直線にならぶ惑星 二三川練
なりゆきで寂しくなった楕円形 樋口由紀子
ひとりひとりに蜜柑手わたす 二三川練