川柳連作「犬神」
犬神 二三川練
指落ちて孤独の呪文唱えたる
老いながら胎に三つ子の焼け野原
暗黒のなか産声の口塞ぐ
蝉落ちるまで快楽の桃太郎
ひときれの肉をこぼして花嫁亡し
指冷えて衣みだれる月曜日
夕立に石を交えて発情す
かきわけて毛深き亜細亜 水びたし
君はヘンゼル 口語に牛の骨を撒き
春のまま酢に落ちてゆく天皇家
鬼の目に天文学の瞳孔ひらく
見渡せば魔女裁判の歩き方
満月を片目に貼って喪中する
面影はなし股裂の唐辛子
英霊の肩にもたれて夕日墜つ
昆虫の皮膚に亜細亜を点描す
砂浜に 杭 どれが犬神
鶏にまたがる夜の硬き舌
孕み鳥孕みし姫を啜りたる
横たわれ家庭菜園滅ぶまで
駱駝肉余りて水に浮かべけり
唇をもう閉じている血のお屠蘇
豪雪に焼け落ちている姉妹都市
くす玉のなかのわたしが泥まみれ
頬裂けて下ることなき観覧車
情愛のまま吸血の宝箱
首吊の口にアイスを差し入れる
劇場に林檎ころがる星条旗
靴磨くほど饒舌の女神像
屍のまだやわらかな茶碗蒸し
(この連作は「えこし通信」29号に掲載したものです。お求めは以下のURLより)
短歌連作「花柄の傘」
朝早きデパート地下を翔けながら人の高さを知る迷い鳩
隔壁のむこうを過ぎる地下鉄に無数の顔がかきまぜられる
星の死を泡につつんで撫でている体温よりもつめたい背中
夕立にずぶ濡れている惑星に花柄の傘かかげて歩く
雨粒のひとつひとつを連れてゆく犬の毛並みに首輪をかけて
あなたから赤きインキのこぼれたり水平線のごとき唇
一滴の血も流さずに死に絶えて大地に乾きたる猫の皮膚
星空を見あげる眼にも灰が降る痛みのままに化石になった
赤子はや赤き肉へと成り果ててわたしの街は灰色の森
産声が遺言となる朝焼けに次のニュースをスワイプすれば
真夜中は起きているには短くて朝焼けよりも眩しきスマホ
こんな日も雪降り積もる富士の峰わたしと同じ言葉を話せ
現代川柳の「怖さ」について~日常侵食型詩型としての現代川柳~
「#怖川柳」というハッシュタグがある。Twitter(現X)上で編集者・ライターの白樺香澄が作成しており、「怖い川柳をみんなでよむ会をやりたい!」という想いから生まれたものだ。
このタグの発生直後、Twitter上では多くの川柳人による「怖川柳」が投稿され、その広がりは暮田真名主催の句会「水曜日のこんとん」でも題として採用されるほどだった。私自身も(別名義ではあるが)Twitter上に「怖川柳」を投稿し、「水曜日のこんとん」にも実際に赴いた(その際は二三川名義である)。
Twitter上に投稿された「怖川柳」は以下のようなものがある。
切り裂いた枕にぎっしり人の爪 白樺香澄
教頭とかつて教頭だったもの 京野正午
人形のひとみに顔が映らない 今田健太郎
揺らすたび歯が落ちてくる信号機 スズキ皐月
「爪」「人形」や学校・人体に関連するホラーにはお馴染みのアイテムがこれらの句には使用されている。その一方で、次のような句も。
マーブルチョコのどろどろの裡 小沢史
タクシーは通常 四足である 西脇祥貴
これらはホラーにありがちなアイテムとは離れ、それでも私が「怖い」と感じた句である。カリカリのマーブルチョコの、見えない内側がどろどろであるという描写。タクシーを「四足」と生物化しながら、「通常」ではない異常生物としての「タクシー」の示唆。「私」のなかにいつまでも居座る日本兵の怨念。直接的なものもそうでないものもあるが、どれもが怖さを感じさせる。この「怖さ」とは、「恐怖」というよりは「不安」に近いものだ。
そう、我々が恐れている感情の多くは「恐怖」ではなく「不安」なのではないか。
(中略)
どうやら、恐怖はなにかを恐れるストレートな感情、不安は恐怖未満のモヤっとした感情、と区別することができそうです。
(中略)
いわば恐怖というのは二股に分かれた道、それに対して不安はだだっ広い砂漠みたいなものです。不安はいつ終わるかもわからない、どう歩いてどう逃げればよいかすらはっきりしない存在なのです。(平山夢明『恐怖の構造』2018年 幻冬舎新書)
この「不安」は川柳の形式と関係がありそうだ。五七五あるいは七七という形式は余白が多く、読者は書かれたことのみを残して「だだっ広い砂漠」に放り出される。短詩の持つ余白は読者の想像力を刺激するが、「怖川柳」においてはそれが不安を呼び起こす。あるいは、その不安は「怖川柳」特有のものではなく現代川柳に付きまとうものかもしれない。
私がそのように考えたのは、そもそも現代川柳を読む際に言いようのない不安感を抱くことがあるからだ。実際に「怖川柳」に関連するツイートに「そもそも現代川柳自体が怖いのではないか」というものもあり、発案者の白樺香澄も次のようにツイートしている。
「嘘すぎることを言うお笑い」も「変な怪談」も「不条理な川柳」も、シュルレアリスム的なランダムな言葉のぶつけ合いによって日常が異化されて、日々の社会生活への認識に裂け目が生じるような表現であってそれを人は「可笑しい」とも思うし「恐ろしい」とも思うんですよね…っていう。
日常の異化、認識の裂け目、それらは私が短歌の界隈にいた頃も何度も耳にした言葉である。そしてこれらのフレーズは、昨今のホラー作品のとあるジャンルともリンクしていると考えた。そのジャンルとは、「モキュメンタリー」「フェイクドキュメンタリー」と称されるジャンルである(本稿では「フェイクドキュメンタリー」に呼称を統一する)。これらのジャンルは直接的に現代川柳と関わるものではない。しかし、私のなかで現代川柳の「不安」とフェイクドキュメンタリーのもたらすそれが繋がるような直感があった。ゆえに、その繋がりの正体を探るために本論を書くに至ったのだ。
本論の目的は、『このテープもってないですか?』のようなフェイクドキュメンタリーホラーやクリエイター集団「第四境界」によるARGなどを例に、現代川柳というジャンルを「怖さ」という視点から捉えなおすことである。なお、私は極度の怖がりであるため文中に挙げる作品のなかには未体験のものも存在するが、どうかご了承いただきたい。
日常を侵食するホラー
フェイクドキュメンタリーとは、フィクションをドキュメンタリー調に映す表現手法のことである。有名なものではYoutubeで投稿されているフェイクドキュメンタリー「Q」シリーズ、テレビ番組の『放送禁止』や『Aマッソのがんばれ奥様ッソ!』などがある。また、「革命と暴力を煽動するもの」として県議会に取り上げられたことで有名な寺山修司のラジオドラマ『大人狩り』は、「今夜はラジオ劇場を放送する予定でしたが、福岡市内に子供の暴動が発生したので、その模様を中継いたします」という報道のパロディから始まるため当時の視聴者に混乱を与えた。これもフェイクドキュメンタリーの一種であると言えるだろう。また寺山は市街劇『ノック』において街を劇場化し虚構と現実の境界を壊そうとした人物でもありフェイクドキュメンタリーとの関連が強い人物でもあるが、それについてはまた別の論で扱おうと思う。
ところで、フェイクドキュメンタリーとは何もドラマやテレビなどの媒体に限った手法ではないと私は考える。この概念を「現実と虚構の境界を曖昧にする」「虚構が現実を侵食する」と捉えたとき、その射程はさらに伸びるだろう。「フェイクドキュメンタリー」という手法への理解を深めるために私がここで挙げたい媒体は、「第四境界」が制作するゲームである。
「第四境界」とは、ARGと呼ばれるジャンルのゲームを作成するクリエイター集団である。ARGとは「Alternate Reality Game」の略であり、「代替現実ゲーム」と訳される。日常生活をゲームの一部として取り込むことが特徴であり、例えば「第四境界」制作の『人の財布』は実際に財布を購入し、そこに入っている領収証やカードなどから持ち主の想いを紐解くゲームとなっている。このように現実世界そのものにフィクションを持ち込むのがARGという手法であり、「日常侵食ゲーム」とも呼ばれているのだ。
フェイクドキュメンタリーやARGといったジャンルは虚構を現実に持ち込み日常を侵食する。そこにある「怖さ」の構造について、2024年2月17日に「BRUTUS」に掲載されたWeb記事「日常へ侵食する、怪異と恐怖。玉置周啓とTaiTanが語るモキュメンタリー」にて以下のように語られている。
周啓:モキュメンタリーって、あらかじめ作り物であると提示されているからこそ、観賞者に「どうせ嘘だろ」と腐(くさ)す隙を与えず、純粋なエンタメとして永遠に掘っていける。一方で、あまりのリアリティによって作り話という前提が揺らぐと、一気に恐怖を感じるのかなと。
フェイクドキュメンタリー(モキュメンタリー)は、「フィクションである」という前提があるからこそ純粋に「怖さ」を感じることができる。例えば「本当にあった怖い話」という題目で怪談を語られるとき、聞き手にはその「本当」を疑う心理が働くだろう。しかしフェイクドキュメンタリーでは予め「これは虚構である」と提示されているがゆえに、「本当に虚構だろうか」という心理が働いてしまう。目の前の虚構が現実かもしれないという心理は、自らの現実にも危機をもたらす。これがフェイクドキュメンタリーのもたらす「怖さ」の特徴である。このように考えると、これまで「本当にあったこと」として語られることの多かったホラーというジャンルにおいてフェイクドキュメンタリーの手法が流行しているのは必然かもしれない。これは少し強引かもしれないが、庶民感情の発露やサラリーマン・老人たちの現実の共感として書かれてきた川柳というジャンルに対する現代川柳の在り方も似ているのではないだろうか。
続いて、フェイクドキュメンタリーと現代川柳の接点を探るために実際のフェイクドキュメンタリー作品『このテープもってないですか?』を紹介したい。
『このテープもってないですか?』における言葉と認識の崩壊
『このテープもってないですか?』はBSテレビ東京で2022年12月27日から29日までの3日間連続で放送されたテレビ番組である。
番組内容は、テレビ局では破棄されてしまった過去のテレビ番組の録画映像を視聴者から募集し、いとうせいこう、井桁弘恵、アナウンサーの水原恵里が3人で観るというもの。提供されたのは過去のニュース映像及び『坂谷一郎のミッドナイトパラダイス(以下『ミッパラ』)』というバラエティ番組。『このテープもってないですか?』では主にこの『ミッパラ』を視聴していくことになる。
『ミッパラ』は今の世では考えられないようなセクハラ発言や女性の露出があり、「ズケズケくるおじさんが真ん中にいるのはこの時代まで」といったいとうのツッコミもありながら映像が進む。そして、番組内の「見て!聞いて!坂谷さん」というコーナーからホラーの要素が始まるのだ。
「見て!聞いて!坂谷さん」は視聴者から坂谷へのビデオを募集するというコーナーだ。つまり『このテープもってないですか?』のなかで視聴している『ミッパラ』のなかでさらにビデオを視聴するという入れ子構造になっている。この視聴者からのビデオには不気味なカットや心霊現象などが混ざりこんでおり、それを見た『ミッパラ』出演者は何かが伝染したように様子がおかしくなる。番組中に明らかに呆けたり、明後日の方向を神妙な顔で見つめたり、果てには意味の通らない言葉を口走ったりする。しかし誰もその異常を指摘することなく『ミッパラ』は進み、やがてスタジオのいとうや井桁も同様に様子がおかしくなるというのがこの番組のホラー要素である。
『このテープもってないですか?』は主に2つの要素によって「怖さ」を演出している。1つは「視聴者投稿のビデオを見たことで出演者が狂気に陥り、映像の外のいとうたちにも伝染している」という心霊現象への恐怖。もう1つは、私たちが日常的に使っている「言葉」が崩壊することで与えられる不安だ。テレビに映る出演者たちはコミュニケーションが取れているように映るが、そのやり取りを視聴者が理解することは困難である。例えば、2日目の放送の『ミッパラ』内で超能力者のアリ・ミラーがスプーンを曲げる際、坂谷は以下のような口上を述べる。
力を込めてください。砂漠の篭城に嵌った病のゾウシ(聞き取りのため漢字不明)、芒に月、出鱈目の坊主が真っ黒に塗り潰した枯尾花。花の蕾の羽化と同時に裏返ったパノプティコンの円筒みたいに!
また、3日目の『ミッパラ』内の会話で行われた以下の羅列。
つぼみに戻る花
屋上に浮かび上がる死体
インクに沿って巻き戻る文字
点灯の後に点滅する電球
咀嚼を経て皿に戻る二枚貝
名付けられる前の自然現象
後者は「巻き戻し」をテーマにした羅列のように読み取れるが、前者に至っては意味不明である。さらに『ミッパラ』では坂谷の「認識のすり合わせってすごく難しいと思うんだよな。言葉をつけるったって前提が違ったら意味ないじゃんか」という発言をきっかけに、認識をすり合わせるための言葉遊びが発生する。
あれは窓
窓の外には何が見える?
外にある窓
外の窓に連なりながら回る蝶番
蝶々のたおやかにしなる輪をなぞり続けた芒
芒に月
出鱈目の坊主が真っ黒に塗り潰した枯尾花
花の蕾の羽化と同時に裏返った全展望監視の円筒形
円筒と管と消化管
胃袋以外を露出した両生類
両生類の鰓呼吸のひだでできた不随意筋としての双子たち
双子だけが産まれる都市を融解するふたひらのガラス窓
都市のガラス窓のなか、蝶番の内側
裏側の窓から覗きこむ胎児の視線
字面だけ見れば連詩のようであるが、これがバラエティ番組内の会話であることを考えるとなんとも不気味である。最後に「胎児の視線」と声を揃えた直後、出演者たちは安堵したように笑いながら「ここまで同じものが見えているとは思わなかった」と言う(また、このときテレビ画面に胎児が浮かび上がるようなのだがその話は怖いのでやめておこう)。
この認識のすり合わせのやりとりは、「窓」という視聴者も共有できるところから出演者のみが共有できる認識へと飛躍する。これは心霊現象により彼らの言葉や認識が崩壊している様が描かれているホラーの描写だが、一方で私は、この場面に現代川柳的な性質を強く感じた。
前節にて私はARGについて「現実世界そのものにフィクションを持ち込む」と書いた。この手法は映像作品である『このテープもってないですか?』にも使用されている。ここで持ち込まれているフィクションとは、言葉そのもののことだ。多くの場合はコミュニケーションや相互理解のために使用されている言葉という道具が理解の輪から視聴者を疎外する。そして、視聴者側はそれらの言葉を理解しようという働きによって侵食を許す。「虚構が現実に影響を与える」といった程度の話ではなく、”狂気”的な言葉の使用によって他者の現実に不安をもたらすというのは、少なからず私が現代川柳を読む際に感じたことだ。例として、小池正博編著『はじめまして現代川柳』(2020年 書肆侃々房)にて「ポスト現代川柳」として挙げられている川柳人の作品を引こう。
鶴は折りたたまれて一輪挿しに 飯島章友
瓶詰の天国ならぶ忌忌忌忌忌 川合大祐
かあさんを指で潰してしまったわ 榊陽子
本来ならばありえない光景やありえない言葉の使い方が現代川柳では当たり前に見られる。読者はそれを読むことで自らの言葉や認識を壊し、規範的な言葉から解放される(川柳評の難しさはそんな川柳作品を規範的な言葉で語ろうとする点にあるのではないかと私は思う)。『このテープもってないですか?』では心霊による狂気が出演者の心身を通過して支離滅裂な言葉を生み出すが、現代川柳では川柳が作者/読者の心身を通り抜けて作品を生み出すのではないか、と私は考えている。現実にもたらされたフィクションが現実を侵食するという点で、私は「日常侵食型詩型」として現代川柳を捉えたい。
日常侵食型詩型としての現代川柳
川柳は自分の手や口を持っていないから、しょうがなくわたしの身体を通過して何かを残していくんだとしか思えないんだよね。(暮田真名『宇宙人のためのせんりゅう入門』2023年 左右社)
上の記述を読んだ際、川柳が生まれる過程を的確に言語化しているように私は感じた。いわゆる自動筆記とも違う、”何か”が自分に川柳を書かせたような感覚。私自身も言語化できているわけではないが、自分のなかで納得できる川柳ができるとき、大いなる「川柳」というものが私の口を借りて何かを話したようなそんな感覚に陥る。川柳に触れてそれに惹かれた時点で、「川柳」は感染して私たちの心身を侵食する。そして川柳を書かせることによって私たちを規範的な言葉から解放する。あまりに「川柳」を神格化した物言いかもしれないが、本論はホラー作品の視点から現代川柳を捉えるというコンセプトのため多少の霊的言説は見逃していただきたい。
本論を書きながら感じたのは、現代川柳を語るには漠然としたものを漠然としたまま扱う必要があるということだ。そもそも「意味がわかる」ことから離れていこうとする川柳を「言語化する」というのは矛盾すら感じる。そこでフェイクドキュメンタリーが視聴者に与える「不安」を起点に、「侵食」というテーマで現代川柳を捉えることで大いなる「川柳」の輪郭が見えたように思えた。現代川柳の「怖さ」とは「川柳」の侵食によって現実が崩壊することへの危機感によるものである。そう一旦結論付けることで、少なくとも「#怖川柳」をきっかけとした「そもそも現代川柳自体が怖いのではないか」という疑問には答えられたのではないだろうか。
ところで、文中でも触れたがフェイクドキュメンタリーの「フィクションを現実」に持ち込むという手法は寺山修司の演劇作品などでも見られたものだ。さらに寺山は「ロミイの代辯―短詩型へのエチュード―」にて「自己の前に生活する自己の理想像をおき、自己をそれに近づけてゆくことが、真の意味で自己に対して誠実でありしかも現代文学の明日を背負っているパターンではなかろうかと考える」(『ロミイの代辯 寺山修司単行本未収録作品集』2018年 幻戯書房)と語っている。この方法論は、自らが作ったフィクションを自身の現実に侵食させるものだと言い換えることができるだろう。また、フェイクドキュメンタリー作品に共通して見られる「断片の情報から全体像を推察する」という構造は寺山の「『私』の拡散と回収」と似ている。さらに、「これは、私の『記録』である」と銘打たれた歌集『田園に死す』の試みについて「日常侵食型歌集」という視点から分析もしてみたいが、それはまた別の形で書きたいと思う。
さて、本論ではフェイクドキュメンタリーの手法から現代川柳を捉えることでその「怖さ」の正体に迫った。そこで見えてきた大いなる「川柳」という存在は私たちの日常を侵食し、規範的な言葉から解放する。これは以前にも述べた川柳の無私性に通じるだろう。問題は、大いなる「川柳」に触れた私たちがいかにして大いなる「私」になるかということである。それは言わば、狂気を包みこむ正気を手にできるか、という問いだ。
『このテープもってないですか?』の終盤では、「坂谷一郎さんにスペシャルインタビュー」と称して寝たきりとなった老人の姿が映る。そして暗闇のなか、ベビーカーの音と共に苦しみ喘ぐ坂谷の声が響く。「川柳」による日常の侵食は、本当に解放だけをもたらすのだろうか。
恐怖ってパイナップルの国みたい 二三川練
※『このテープもってないですか?』は現在U-NEXTにて視聴可能
寺山修司というREGGAE~短歌HIPHOP説に対抗して~
「短歌はラップと似ている」といった話を聞くたびになんとなく面白くない気持ちになる。二者の共通点として挙げられる韻や即興性のような要素は何もHIPHOPに限ったものではなく、「なんだ、それならREGGAEも同じじゃないか」と、HIPHOPよりもREGGAEに熱中した身としては思いたくもなるのである。
ということで「短歌とREGGAE」について考えていたのだが、じっくり考えてみるとやはり短歌はREGGAEよりはHIPHOPの方が近いだろうという結論になる(その過程については省略する)ため、「ああ、やっぱり『短歌はラップと似ている』でいいか」と納得するわけである。
ところがここで話は終わらない。寺山修司研究者としてはやはりここで「では寺山修司はHIPHOPなのかREGGAEなのか」という問いが生まれてしまうわけで、寺山は歌人なのだからそれはHIPHOPで決まりだろうと思いきや、驚いたことに寺山修司はREGGAEなのである。これについて考えてみると、なぜ寺山修司が今でも未解明なのか、なぜ寺山修司の遺した火を継ごうとする歌人がいないのかが見えてくるような気がしてくる。そのため、REGGAEもHIPHOPも多少かじった程度の身であることは申し訳ないが、ここに寺山修司とREGGAEに関するちょっとしたお喋りをしてみようと思う。
HIPHOPとREGGAEという二つのスタイルの違いは、自己引用にあるだろう。特にMCバトルを見ると顕著で、Deejayは自身の楽曲からの引用(いわゆる「ネタ」)が非常に多く、即興を重んじるRapperからその点を指摘されることなどは茶飯事である。REGGAE版のMCバトルと言えるDEEJAY CLASHでは対峙する二人があらかじめ多くのネタを仕込み、実に30分近くのバトルを行うのだ。これは即興性を重んじるHIPHOPの視点からは考えられないことかもしれない。
この自己引用というスタイルについては以下のMCバトルを見るとわかりやすいだろう。
このバトルで使用されたリディムは「Reggaelypso」であり、DeejayであるRAYはこれを使用した「JUMP UP」という楽曲をリリースしている。
(ちなみに「Reggaelypso」については以下の動画より)
REGGAEの自己引用は、その場の文脈において最適な自身のフレーズを選び取るものである。サンプリングはHIPHOPでも盛んな行為だが、引用そのものを作品に昇華するのはREGGAEならではと言えるのではないだろうか。MCバトルに出場するDeejayのなかにはPOWER WAVEやMAKAなど即興性を重んじる者もいるが、CHEHONやRAY、APOLLOなど即興を混ぜながらいかに自己引用で場を盛り上げるかといった者がほとんどであると言っていいだろう。
そして即興性と自己引用の融合として、2023年渋谷レゲエ祭vs真ADRENALINEにおけるREGGAEルールでのCHEHONのバースは一つの到達点にあろう。
このように、自らの言いたいことを主張する際に自己引用を重ねるという手法は、寺山修司が自身の作品で繰り返し行ってきたことと同様である。俳句から短歌へ、短歌から詩や映画へと自己引用を繰り返した寺山修司の文学的本質はそのジャンル横断への野心にある。現在では短詩型創作者が短歌や俳句、川柳といった複数の形式に手を出すといった光景は当たり前だ。しかしその多くがHIPHOP的な即興性こそを重んじており、REGGAEのような自己引用ひいては寺山ほどの横断の意識を持つ者は、ほとんどいないのではないだろうか。
寺山の野心であった横断文学は、「ロミイの代辯」で語られた「現代の連歌」における「新ジャンルの復活」と深く関係している。五七五の俳句に七七を付けることで短歌を創作するという方法論は、検討段階ではあったもののたしかに寺山の根幹をなすものだった。
そもそもの連歌(現代においては連句の方が主流かもしれない)は複数人が五七五と七七を続けていく文芸であり、僕の連句の先生はこれを「世界で唯一の集団文芸」と語っていた。僕もこれに異論はなく、常に他者の言葉を引用することで様々な世界を描いていくというその性質は短歌連作にも応用されるべきではないかと考えている。
ところで、集団で一つの作品を作る文芸ジャンルはたしかに連歌(連句)しかないだろう。では、音楽ではどうだろうか。ここで以下の動画を見ていただきたい。
皆さんにも聞き覚えのあるフレーズが入っていたのではないだろうか。これはRUB A DUB(ラバダブ)というREGGAEの形式であり、一つのリディムのなかでDeejayたちが即興で自身の持ち歌をアレンジしながら繰り出すというものだ。REGGAE版フリースタイルといえばわかりやすいだろうか。
HIPHOPにおけるサイファーとREGGAEにおけるRUB A DUBは他者の言葉から自身の言葉を紡ぎ、変化を続けていくという点で連句的性質を持つ。両者の違いとして、サイファーが即興性を重んじる一方でRUB A DUBは他者からの引用と自己引用を繰り返す性質を持つ。また個人的には、作品としての完成度はRUB A DUBの方が高いように思う。それらを鑑みると、寺山修司の映画『書を捨てよ町へ出よう』や『田園に死す』、長編叙事詩『地獄篇』などといった多くの作品は、過言を恐れずに言えば、寺山修司によるRUB A DUBであるという見方を否定できない。
現在、歌人による寺山論は膨大である。しかし、横断文学という寺山の野心を見抜きその火を継ごうというほどの意志ある論はほとんど存在しない。その原因について考えていたのだが、僕の仮説としてはやはり「歌人がHIPHOPの立場から寺山修司を語るから」というものが有力である。即興性や自己を劇的に演出するという点ではたしかにその立場も間違いないだろうが、それだけでは自己引用の問題から遠のいてしまう。もしあなたが寺山修司について何かを論じようとするならば、今一度REGGAEに立ち返る必要があるだろう。
ところで、REGGAEと寺山修司の共通点はまだある。先に掲載したMCバトルの動画でRAYが歌っていたように、HIPHOPのバトルの主眼は勝敗にあるが、REGGAEはいかにステージと観客を盛り上げたかに主眼が置かれる。DEEJAY CLASHも相手をディスり合うバトルではあるものの、公式で勝敗は決めず「あっちが勝った、いやこっちが勝った」などと観客同士で議論することがその楽しみ方とされている。つまり、REGGAEは観客とともに楽しむという意識がより強いと言えるだろう。
そして寺山修司が「短歌における『私』の問題」にて岡井隆に指摘した「私の拡散と回収」もまた、読者と一体になって作品を形成する試みであった。この手法は、まず作者が全体的な「私」、その「幻の私像」のイメージを持った上でその「私」の断片を短歌連作のなかで拡散させる。次にそれを読者が回収作業を行うことで全体的な「私」が完成する、というものである。
この、短歌を全体文学とするための寺山修司の方法論に対し、岡井隆は「短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。」と述べ、作者と読者とを分断してしまった。思えば、短歌がHIPHOPの道を辿ることになった理由は岡井のこの発言にあるのではないだろうか。それはまた、短歌が全体的な「私」――あらゆる「私」を横断する「私」になりえる道を閉ざした原因であるとも言い換えることができる。
僕は何もHIPHOPとREGGAEと優劣を語りたいわけではない。ただ、HIPHOPの道を歩んだ短歌がここでREGGAE的精神へと横断した際に何が生まれるのかを見てみたい。もちろん、現在において拡散された「私」を回収するほどの意志ある読者がどれほどいるのかについてははなはだ疑問ではある。それでも、寺山修司に惹かれた以上は誰かがその火を継がねばなるまい。
寺山修司がスクリーンの向こうから「何してんだよ」と挑発する。RED SPIDERがステージの上から「お前ら葬式来たんか!?」と罵倒する。では、個の時代の果てに「個」すら失いかけている私たちは、紙の上から何をやるというのだろうか。
ヘタレの都合知らんがな 弱いもん見つけて威張んなや
やってもないのにひがむなら 買っとけ自分の墓の彼岸花――「顔面蒼白 feat. APOLLO, KENTY GROSS, BES」
寺山修司はなぜ川柳を書かなかったのか――寺山文学が後世に遺した全体文学の課題
※本稿は「えこし通信」27号(2023年 えこし会)に寄稿した原稿です。
寺山修司はなぜ川柳を書かなかったのか――寺山文学が後世に遺した全体文学の課題
二三川練
全体文学に向けての試論
寺山修司(一九三五―一九八三)が短歌や現代詩、演劇や映画など様々なジャンルで大きな功績を残したのは周知の通りであり、現在に至るまで多くの研究者や識者が寺山についての研究を行っている。筆者自身も横断文学者としての寺山修司の研究を行い、その文学的本質や寺山が試みた全体文学への展望を明らかにした。その過程で筆者が抱いた疑問の一つに、寺山はなぜ川柳にほとんど触れていないのかというものがあった。寺山は短歌創作論の一つに「現代の連歌」を掲げており、句切れを駆使することで俳句から短歌への横断を実践した作家だ。なぜ、連歌への意識を持っていながら寺山は俳句にだけこだわり川柳には手をつけなかったのだろうか。
筆者はこの疑問について「月報こんとん」五月号収録の「寺山修司はなぜ川柳を書かなかったのか~現代川柳の横断可能性について~」にて論じ、寺山の川柳批判、及び現代川柳の横断可能性について示した。しかしこの論は寺山研究という視点では未だ不完全であったため、本稿にて再び俳句、短歌、川柳の三形式を捉え直すことで全体文学のあるべき姿を問うこととする。
まず、筆者が博士論文「横断文学者寺山修司の試み~俳句と短歌の統合に向けて~」(日本大学大学院芸術学研究科博士論文 二〇二一年三月)にて明らかにした寺山の試みと展望について述べよう。
寺山は自身の短歌のデビュー作「チェホフ祭」にて俳句から短歌への横断を行った。これは「現代の連歌」「第三人物の設計」「単語構成作法」といった方法論に則ったものであった。また、寺山はこの横断を行うきっかけとして中城ふみ子の短歌の存在を示唆しており、俳句と短歌――具象性と暗示性の接点をこの横断に追求したものと考えられた。
「チェホフ祭」の次に寺山が試みたのは「私」の拡散と回収による全体文学の実践であった。これは全体的な「私」像を作者がイメージした上でその断片を短歌に散りばめ、読者が回収するという手法であった。寺山の第三歌集『田園に死す』がこの実践である。そしてこの実践と挫折を踏まえて寺山が直面したのが短歌の自己肯定の問題であった。これは短歌がどうしても自己を出発点としてしまうがゆえに、他者を持てないという問題である。これに直面した寺山は「歌のわかれ」を告げ、演劇や映画への横断を行う。
そして晩年の寺山は再び俳句と短歌への意欲を見せる。これは自らの死に直面したことで生まれた「個人」の問題への意欲であり、内面化の果てにある滅私の「私」への意欲であったと考えられる。その実践としての作品を発表することは一九八三年の寺山の死によって叶わなかったため、滅私の「私」の表現による全体文学の試みが寺山の最後の課題として遺されたのである。
では、続いて全体文学の試みにあたって俳句と短歌が持つ特徴と欠点、そして寺山と川柳の関係及び川柳の特徴と欠点について述べよう。
俳句の特徴と欠点について
寺山が注目したのは俳句の持つ句切れ、そして具象性であった。この句切れを短歌に取り入れることで言葉と言葉が暗喩的関係に置かれ、物語性が生まれる。つまり、物語の説明にならずに具象性と暗示性が両立するのである。
一方、俳句の持つ欠点はその短さにある。「ロミイの代辯――短詩型へのエチュード」において「ぼくは行為が画かれない即物詩のなかではやはり窒息しそうだし、最近俳壇でとやかくいわれている『もの』の問題にしても、ものの描写が行為を暗示するという線でのみ妥協できるのである」と書かれていたように、寺山は俳句の即物性に暗示性を求めていた。そして、即物性と暗示性の接点として中城ふみ子の短歌に希望を見出したのである。つまり、俳句の短さでは短歌的な物語性を構築することができなかった、というのが寺山が俳句に感じた欠点であると考えられる。
短歌の特徴と欠点について
まず短歌は「私」が発生することにより物語性を暗示することができる。寺山はこれに注目し「第三人物の設計」という方法論及び「私」の拡散と回収という方法論を生み出した。つまり、全体文学の展望は短歌に始まっていると言ってもよい。しかし、先に書いたように短歌はどうしても「私」から出発してしまうという欠点を抱えていた。全体的な「私」を描こうにも他者を描くことはできない、という問題が『田園に死す』の前に立ちはだかった壁であり、寺山の「歌のわかれ」のきっかけであった。
ただし、晩年において寺山は短歌のこのデメリットを捉え直している。「私」から出発する短歌が、その内面への深化によって滅私の表現に至るのではないか、という展望である。これは未開拓の領域であり、今後の研究と実践によって明らかになるだろう。
続いて川柳の特徴と欠点について
筆者が「寺山修司はなぜ川柳を書かなかったのか~現代川柳の横断可能性について~」にて記したように、寺山は川柳を「芸術」として認めてはいなかった。ただしそれは川柳という形式を全否定していたわけではない。落書にある高い批評精神を認めた上で、川柳の目指すべき道として落書を提示したのである。ここで川柳と落書の共通性として考えられるのが無私性であった。
川柳は「私は何にでもなれる」という特徴を持ち、それは言い換えれば「私は何者でもない」という特徴――無私性を持つ。川柳の「私」は無自覚な「私」とでも呼ぶべきものであり、それゆえに個のわがままな内面が表れていると言えるだろう。それは詩――芸術になる以前の、揶揄や皮肉といった感情をそのままに描くことが可能な形式であるということだ。
だが、寺山は川柳を書き残さなかった。これは川柳の抱える署名の問題に起因すると考えられる。落書と川柳の大きな違いは作者名を著すという点にある。作品における署名は、作品の責任の所在を明らかにするものだ。ゆえに寺山は「短歌における『私』の問題」にて、当時の作家がその責任についてどこまで自覚的なのかを問うている。では、この「責任」は果たして川柳にも発生するものなのだろうか。
筆者の考えでは、落書になり得た川柳はもはや署名など関係なくその責任から逃れることが可能である。先に書いた通り、川柳は「あなたが誰でも構わない」という性質を持つ。それが川柳の無私性であり、その署名すらも無私にしてしまう、というのが筆者の川柳観である。
この署名の捉え方にこそ寺山が川柳を書かなかった理由があるだろう。川柳は署名の責任を無にする落書の形式であるが、寺山は寧ろ署名により発生する責任に注目していた。さらに言えば、「寺山修司」という署名をした俳句、短歌作品を既に多く残していた。それを踏まえると、自身を仮構し新たな「私」を生成しようとしていた寺山が「落書」に自らの名を著すことを避けたと考えても不自然ではないだろう。
ここに寺山の課題があったと考えられる。自らは落書を愛し、落書の持つ覚悟を文学に求めていながら、自身は落書――川柳を忌避していた。寺山が晩年に臨んだ内面の深化は、まず川柳から始める必要があったのではないだろうか。
では、これらを踏まえた上で全体文学のあるべき姿を考える。まず、全体文学の前提として全体的な「私」のイメージを作者が持つ必要がある。このイメージのきっかけを川柳の無自覚な「私」が導くだろう。誰でもない「私」つまり誰でもある「私」は、ありとあらゆる「私」に扮して揶揄や皮肉を行うことができる。ここに、一人の作者がありとあらゆる他者となれる根拠がある。そして川柳の持つ内面から始めることで、短歌における内面の深化――滅私の「私」へ向かうことができると考えられる。
次に、川柳から俳句への横断を行う。ここで川柳が即物的な俳句に書き換わることで、物語性を獲得するための具象性を得ることができる。川柳から直接短歌へ横断してしまうと観念的、説明的な短歌に陥る危険がある。そのためここで俳句へ横断することによって具象性を獲得し、川柳の揶揄を文学的、芸術的な批評性へ昇華することができる。
最後に、川柳から横断した俳句からさらに短歌へと横断する。ここで具象性と暗示性が融合することで物語性が生まれる。そして川柳のありとあらゆる「私」の内面を深化することで、全体的な「私」の断片を散りばめることが可能になる。つまり、短歌で他者を描くという展望がここにはある。それはまた同時に、深化の果てに滅私の「私」へと至ることも意味している。これが全体文学の輪郭である。
無私の「私」から滅私の「私」へ。揶揄する「私」から批評する「私」へ。これらの横断を経ることで、全体文学の試みは完成するのではないかと筆者は考える。だが、その実践のためには様々な課題があることも間違いない。
果たして誰でもない「私」、ありとあらゆる「私」の全体像をイメージできるかどうか。これが第一の課題にして最も大きな課題であると筆者は考える。この文学的に閉塞した時代において、それほどの想像力を持った作家が一人でもいるだろうか。寺山修司が後世に遺した課題は、現代文学の想像力を今一度問うことになるだろう。
以上を踏まえ、寺山の俳句→短歌への作品あるいは寺山の俳句作品を前にし、あるべき川柳とはどういうものなのかについて筆者自身の試作品を提示して筆を置く。
寺山の俳句及び短歌につけた川柳(小文字が寺山修司の俳句及び短歌、大文字が二三川練の川柳)
チエホフ忌頬髭おしつけ籠桃抱き
桃いれし籠に頬髭おしつけてチエホフの日の電車に揺らる
チエホフ忌下北沢に立っていろ
夏井戸や故郷の少女は海知らず
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
少女から海の味するチョコレート
この家も誰かが道化揚羽高し
この家も誰かが道化者ならむ高き塀より越えでし揚羽
母も道化おれも道化の朝ごはん
目つむりて雪崩聞きおり告白以後
草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ
告白も雪崩も君のせいですよ
桃太る夜は怒りを詩にこめて
桃太る夜はひそかな小市民の怒りをこめしわが無名の詩
し は もも だいすき 戦争 だいきらい
老木に斧を打ちこむ言魂なり
山小舎のラジオの黒人悲歌聞けり大杉にわが斧打ち入れて
老木が斧のペニスにお辞儀する
枯野ゆく棺のわれふと目覚めずや
音立てて墓穴ふかく父の棺下ろさるる時父目覚めずや
棺桶に入り親父と旅行する
わが夏帽どこまで転べども故郷
ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らむ
故郷で買われた処女が処女作です
寺山の俳句につけた川柳(小文字が寺山修司の俳句、大文字が二三川練の川柳)
いもうとを蟹座の星の下に撲つ
いもうとを殴った順に下校せよ
暗室より水の音する母の情事
母親は水商売に飽きている
土曜日の王国われを刺す蜂いて
蜂ならば王国くらい滅ぼせよ
旅に病んで銀河に溺死することも
なにが旅なにが故郷溺れてしまえ