灰の森通信

二三川練の感想ブログ

「現代短歌」編集部への抗議署名を集めます

【「現代短歌」編集部への抗議署名を集めます】文:二三川練

 

 先日発売された「現代短歌」2021年9月号(通巻86号)の編集後記にて、多くの歌人を蔑ろに扱う発言がありました。この問題について編集部に抗議するため、同様の問題意識を持つ方々からの署名を集めようと思います。
 抗議メールには署名していただいた皆さまの名前(「匿名希望」も可)及び、コメントを書いていただいた方はそのコメントを個人が特定されない形でpdfファイルにて添付致します。

 

署名フォームはこちら


 以下に、本件の詳細と私の認識している問題点を書き記します。

――――――――――

 2021年7月16日に雑誌「現代短歌」2021年9月号(通巻86号)が発売されました。本号の特集は「Anthology of 60 Tanka Poets born after 1990」、すなわち1990年以降に生まれた歌人たち60人の歌を集めたアンソロジーです。誌面ではこのアンソロジーについての大森静佳氏と藪内亮輔氏による対談も掲載されています。

 そして、本号の編集後記に書かれた文言が多くの批判を集めております。以下にその編集後記を引用致します。


 このアンソロジーに自分がなぜ呼ばれなかったのか、不満顔のきみのために理由を書こう。声をかけようとしたが、きみの連絡先がわからない。TwitterのDMにも無反応だ。それ以前に、最近のきみは同人誌でも存在感が薄く、作歌を続けているのかどうかも怪しかったのだ。掘り出した石は君の宝物で、人に見せたいが、市に並べて値踏みをされるのは御免だという気持ちはわかる。だが、こうして市が開かれてみると、もっと見事な自分の石がそこにないことに、きみは茫然とする。ぼくらにできるのは今日仕入れることのできた六百個の石ができるだけきれいに見えるように並べることだ。次の市は未定だけれど、そのときまでに、きみの磨いた石を見せてほしい。(「現代短歌」2021年9月号 156頁)


 先に書いておきますが、私は1993年生まれであり、かつこのアンソロジーにお声掛けいただけなかった立場にあります(一応書いておきますと、TwitterのDMは届いておりませんので文中の「きみ」は私を想定したものではないと考えております)。アンソロジーを編むという行為は数いる人々のなかから人を選び、かつ選ばないという行為のため、お声掛けいただかなかったことに対しての批判は一切ございません。もちろん悔しく思う心はありますが、それは今回の主旨とは外れますのでここで長々と語ることは致しません。

 さて、こちらの編集後記の問題点については既に多くの方がTwitterやブログで言及しています(よければTwitterで「現代短歌 編集後記」と検索してみてください)。主な論点を以下に取り上げます。


・編集部が企画に対する自らの責任を放棄した上で、歌人に対し非常に高圧的な態度を取っている

  こちらは、「不満顔のきみのために」から始まる全体的な口調を見れば一目瞭然であるかと思われます。また一文目以降の内容は「アンソロジーに取り上げたかったけどきみのせいで取り上げられなかった」という責任転嫁となります。例えば私は「同人誌でも存在感が薄く、作歌を続けているのかどうかも怪し」い歌人に該当するかと思われますが、それでもこのような書かれ方をされる謂れはありません。
 アンソロジーは人を選ぶ側が全責任を負うからこそアンソロジーとしての価値があり、ゆえに読者は選ぶ側の選定眼も含めて楽しむのだと私は考えております。しかしこの編集後記の書きぶりでは編集部の責任は一切放棄され、選ばれた歌人に対しても「連絡先がわかった」「DMに返事が来た」「同人誌で目立っていた」という理由で選んだのかという疑念が生まれます。つまりこの60人は、歌の質ではなく歌人としての政治的立ち回りが評価されて選ばれたのか、と疑われかねないのです。このような態度はアンソロジーに呼ばれなかった側はもちろん、選ばれた方々やこのアンソロジーを楽しみにしていた読者の方々までも侮辱するものです。


・「市」と「石」という比喩

  この編集後記では、アンソロジーに呼ばれなかった(DMに返答をしなかった)多くの歌人の心情を「市に並べて値踏みをされるのは御免だという気持ちはわかる」と勝手に推察しています。「きみ」をプライドが高く他人からの評価を拒む存在として勝手に設定し諭すような書きぶりですが、現在の様々な短歌の新人賞の応募総数などをご存じないのでしょうか。
 さらに言えば私は、そしておそらくはこのアンソロジーに呼ばれた歌人も呼ばれなかった歌人も、「現代短歌」をはじめとする短歌総合誌に作品(=「石」)を渡し売上に貢献することを目的として作歌活動を行っているわけではありません。ただ自身の文学観や実生活とのペース配分を考慮しながら創作活動をしているだけで、なぜこのような中傷をされなくてはならないのでしょうか。
 また、寄稿した歌人たちの作品を「今日仕入れることのできた六百個の石」と表現することは、その背後に確かにいる人間の存在を無視しています。特集の序文にランボオの「無検査のダイヤモンドの大売り出し」という文言を引用したことにも、同様の問題があります。


 以上の二点を踏まえ、私は「現代短歌」編集部に対して抗議のメールを送ります。それに伴い、この件について同様の問題意識を持つ方々に、ぜひ署名をしていただきたいと思っています。

 

 歌人がこのように1つの出版社から蔑ろに扱われてしまうという出来事の背後には、長い時間をかけて歌壇及び短歌メディアに構築されてきた権力構造があると考えられます。新人賞を受賞することや歌集を出すこと、大々的に活動することでようやく「歌人」として一人前だと認められる、といった構造が未だに現歌壇には見られます。
今回のようなことがあっても「現代短歌」は買われるでしょうし、多くの批判もTwitter上での一時の炎上で終わってしまうのでしょう。それくらい「歌人」一人ひとりの声は弱く、蔑ろにされやすいというのが現状です。また、どれだけ怒りを抱いていても、「原稿依頼が来なくなるかもしれない」「大ごとにしては周囲に心配をかけてしまう」といった理由で行動を制限されている方も非常に多いのではないでしょうか。

 

 今回抗議署名を集めることの目的は、1つには「現代短歌」編集部に問題点を認識していただき公的な謝罪を求めることがあります。そしてもう1つは、こういった歌壇及び短歌メディアにおける権力構造を批判し、行動をする歌人がいることをはっきりと可視化させることです。

 

 冒頭にも書きましたが、「現代短歌」編集部へ送るメールには、署名していただいた方々の名前やメッセージがあればそれも付記する予定です。そのため、「匿名希望」という形式でも構いませんのでぜひ署名していただけたらと思います。
 この運動を行っても、何かがすぐに変わるとは限りません。それでも何かを変えられるかもしれない以上、このままではいけないと思う以上、私は行動します。どうかご協力ください。

 

署名の目的
・「現代短歌」編集部に本件の問題点を認識していただくこと
・「現代短歌」の誌面や現代短歌社ホームページなどに公式の謝罪文を掲載していただくこと
・歌壇及び短歌メディアにおける権力構造を批判し、行動をする歌人がいることを可視化させること

 

署名フォーム

 

 8月14日(土)に集計し、「現代短歌」編集部に送らせていただきます。また、ご返答がいただけましたらそちらもブログに掲載したいと考えています。その旨は事前に「現代短歌」編集部へお伝えし、許諾を頂けた場合に行います。

「シモーヌ」VOL.4と私性とテクスト読解の話

 「シモーヌ」VOL.4を読んだ。これは「雑誌感覚で読めるフェミニズム入門ブック」を銘打っており、私も連載「ふみがわのフェミ短歌塾」にて参加させていただいている。今日はこの本の感想やそれに関連することなどをつらつらと書いていこうと思う。

 

www.gendaishokan.co.jp

 

 まず、今号の特集は「アニエス・ヴァルダ」である。私は恥ずかしながら本書を手に取るまでこの女性映画監督の存在を知らなかった。読了後にアマゾンプライムにて『幸福』を観たが、本書で多くの執筆者が言及されている『歌う女・歌わない女』は配信にも無かったためこれから探してみようと思う。

 『幸福』は残酷な映画であった。新たなパートナーを作ったことを一ヶ月も妻に内緒にした男の口からは自己正当化の言葉ばかり。事故――おそらくは自殺――した妻の代わりをそのパートナーが務め、なんの障害もなく家族の幸福は続いていく。この作品における「妻」とは一人の人間を指すのではなくその役割を果たす存在のことを指している。亡くなることで人間としての感情を示した妻は、しかし、一時の悲劇として忘れ去られてしまうのだ。それが決して批判的には描かれていないがゆえに、「夫婦」という構造が問い直されるのである。

 本特集において私が注目したのは以下の記述である。

 

この作品(筆者注 『ダゲール街の人々』)のスタイルは、ヴァルダが三歳になる息子マチューの面倒をみるために、自宅から持ち出した電気ケーブルが届く九〇メートル以内の範囲で撮影するという私的な条件から生まれたものだという。(中略)ヴァルダの「生活」と「私的なこと」が作品の方法論と美学を規定していることがわかる。

(中略)この作品(筆者注 『ラ・ポワント・クルート』)は、(中略)ドキュメンタリーとフィクションの境界を無効化するというきわめてヴァルダ的な方法によって作られている。(菅野優香「最愛の夫 ヴァルダの「ドゥミ映画」を読む」)

 

 ここに私は短歌における「私性」の問題との接点の可能性を見た。短歌は作者の実生活が題材になることが多い形式である。それゆえ、短歌読解の際は作中人物の社会的プロフィールを想像しその精神の在り方を分析するものが多く、言語芸術という側面をつい忘れがちになってしまう。一方では短歌の「余白」を愛しながら、他方ではその「余白」を好き勝手に塗りつぶすという歪んだ構造が当たり前になっているのだ。

 特に、寺山修司が短歌創作において全体的な私像をイメージした上でそれを各歌に散りばめ、読者が回収するという「私の拡散と回収」の方法論は重要なものであった(「短歌における「私」の問題」)。しかし、これを岡井隆が「短歌における〈私性〉というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。」(「〈私〉をめぐる覚書(その三)」)として、作者の問題から読者の問題へとすり替えてしまったのである。そしてこれを信奉した歌人たちが歴史を作ってきたがために、現代でも多くの歌人が「作中主体」や「語り手」などの言葉を用いて「私性」の袋小路で泥んこ遊びに耽っているのである。

 また、後に最近短歌の世界では「テクスト読解」というものが流行しているらしい。これは一つの作品を読解する際に作者の情報などをできるだけ含まずに読もうとするもので、おそらくは短歌作品の評価に作者の社会的性別や年齢が関わるという悪習への拒否感から掲げられてきたものだろう。

 先に引用したようなヴァルダの手法は、テクスト読解においては無効になってしまう。作者の情報を敢えて無視する世界においては、そもそも「ドキュメンタリー」というジャンルすら成立しないのかもしれない。作品のなかに実生活の「私」を拡散させる手法は作者が自身の現実を見つめ直す上で重要である。そして観客が虚構と現実の狭間に置かれた真実へと手を伸ばさんとする作業によって、初めて作品が完成するのである。

 引用に記された映画を観ているわけではないのでこのくらいにしておくが、ある作品が社会的かつ個人的な文脈の上に置かれることは作品評価においては必然のことである。映画が社会的な形式であり短歌が個人的な形式であることを差し引いても、テクスト読解とそれを前提とした創作行為には早急に身を引いていただきたいというのが本音である。

 

 さて、本書ではアニエス・ヴァルダの特集の後に映画会社アップリンクによるパワーハラスメントとその裁判の時系列などを扱った「多様で公正な世界を映し出すために」が置かれている。フェミニストの映画監督の特集からこの記事に続くのは連句的な美しさを感じた。力の入った「映画業界意識調査アンケート」は必見である。回答依頼を送った174社のうち12社しか回答しなかったというのは留意すべき事柄だろう。数多くの優れた作品を私たちに鑑賞させてくれる施設が、搾取の上に成り立つことのないよう願う。

 

 全ての記事に言及したいのは山々だが、あと一つ二つに留めておこう。次に取り上げたいのは、伊是名夏子×荒井裕樹×石川優実×松波めぐみによる座談会「障害者の声はワガママなの? JR乗車拒否問題から合理的配慮、当事者運動の歴史を学ぶ」である。事の発端は伊是名さんのブログをご覧いただきたい。

 

blog.livedoor.jp

 

 車椅子を使用する人は車椅子を使用しない人と同じように駅を利用することができない。すなわち、社会においては未だに車椅子使用者はいないことにされている、または「例外」の存在として扱われているということである。特に言及したいのは荒井さんの「自分のこととして考えてほしいっていうメッセージを発信すると、なぜか自分の感覚で裁く人がいる」という発言である。

 最近、様々なものを目にしながら思うのは「自分事として考える力」の欠如である。例えば、漫画の登場人物でワガママな子どもが現れたら感想欄にて大人の立場から酷く罵倒する、というような光景がある。他者の視点には立てず、現在の自分の視野でしかものを見ることができないのだ。言い換えればそれは想像力の欠如である。漫画の登場人物にせよ生きている人間の主張にせよ、その奥にいる「人間」を見ることができない。車椅子ユーザーではないから車椅子ユーザーは完全な他人となる。ゆえに車椅子ユーザーのことを知ろうともせず、独断と偏見で物事を決めつけて罵倒する。座談会内で石川さんが語るように#kutooにおける差別的バッシングもこの構造を背景としていると考えられる。ある言葉や行為の背後に一人の「人間」を想像できないゆえに、マジョリティによる表面的な社会に覆い隠されてしまう。

 

 先日、『チョコレートドーナツ』という映画を観た。ゲイカップルがダウン症の子どもを養子にするが、やがて二人がゲイであることが露呈し子どもと引き離されてしまう。三人は幸福な生活を送っており子どもに多くの愛情を注いでいたことが近しい人物から告げられても、ゲイであるがゆえに子どもへの「悪影響」を捏造されるのだ。作中、パーティーで関係性を周囲から隠す二人は「これは差別よ」「差別じゃない。現実だ」という会話を行う※1。しかし、その「現実」が三人の幸福を奪うのである。

 ヴァルダの『幸福』においては「妻」という存在が上書きされることによってそこにいた一人の人間が消されてしまった。『チョコレートドーナツ』においては幸福な三人の「人間」を見ずに差別と偏見による決めつけによって関係が引き裂かれた。そして、JR乗車拒否問題や#kutoo運動では伊是名さんや石川さんの人格の決めつけや「障害者」「フェミニスト」に対する偏見によって激しいバッシングが起きている。特に「差別の問題ではなく個人の問題だ」のようにある行動の社会的文脈を無視して個人の問題に矮小化せしめんとする手口は、まるで社会は此の世に突然現れたとでも主張するような愚行である。これらに深い憤りを覚えると同時に、このような現実を前にしてもなお作品の背後にいる人間と社会を排除しようとするテクスト読解には憤りとともに深い絶望感を抱く。既に「弱者は文学を作る」ことすらできなくなる時代が来ている。

 

 今、「私はあらゆる他者であり、あらゆる他者は私である」と言えるほどの想像力を持ち得た人物がどれだけいるというのだろうか。他者への想像力を持たない限り市民の幸福は奪われ続け、短歌の私性が袋小路から出ていくことも、またできないのである。

 

 

※1 記憶頼りの引用だが、ゲイカップルの片方が字幕において「女ことば」を使用していたためこのように表記した。字幕における「女ことば」の問題については「シモーヌ」VOL.4の中村桃子「世界の女性は「女ことば」を話す」を読んでいただきたい。

 

  

次回更新は6月30日(水)を予定しています。

【川柳作品】連作「ペンギン家族」

ペンギン家族


弊社よりアベンジャーズを送ります

敗訴なら敗訴で投げる石はある

ゴンドラを外した観覧車 照れる

サンダルを履いて氷漬けのライオン

エルフ一人の同窓会を

戦争を撫でると猫の声で鳴く

轢かれたるイルカの頭だけ歩道

太平洋を縛る荒縄

肺癌をフラッシュモブで打ちあける

大仏と分けあうクリスマスケーキ

心臓に空き部屋ひとつ予約する

爪剥がすほどオパールもおっぱいも

朝焼けとグリム童話が窓を割る

石化して数百年の発情期

博論がサブリミナルでわかりやすい

路上ではキスまでにしてドラえもん

精子生死制して政治家は笑止

あなたたち津波見るとき聖少女

電話してたらチョコパフェを渡される

算数ができてる故郷焼きあがる

ペンギンの家族といえば偽ヴィトン

アフリカの布で空から星を消す

骨格を抱く刺し殺すはずだった

マスクして祖国の顔がわからない

月蝕を千の眼鏡で見あげてる

焚き火して東西南北近くなる

原付は龍より速い信じなさい

蜘蛛が這う左手アイドルの精通

共感のできる自殺が落ちてくる

お茶請けはプラネタリウムが捨てた星

 


次回更新は6月21日(月)を予定しています。

異世界転生の話

 ここしばらく、創作のアウトプットばかりでインプットをほとんどできていない。この度、BOOTHにて私家版作品集である中澤系トリビュート「kuchibue2020.txt」の電子版を販売する運びとなった。これは中澤系の持つ時代への意識を踏まえた上で、短歌、連句、俳句、川柳、詩、小説を執筆するというコンセプトの作品集である。今年の1月に構想を得て、2~4月の3ヶ月間で執筆した。自身のことをあまり卑下したくはないが、同世代歌人の中でも読書量と創作への執着が著しく劣っていることは紛れもない事実である。せめて執着くらいは取り戻そうと思いこの書を執筆したわけである。
 5月上旬に「kuchibue2020.txt」の準備を終え、僕はWOLF RPGエディターによるRPGの制作に取りかかっていた。現在もまだ制作初期段階ではあるが、完成したらフリーゲームとして公開したいと考えている。
 これだけならまだ良いのだが、5月末にある創作のアイディアが湧いたため川柳、俳句、短歌を大量に執筆してしまった。世に出ることは無いかもしれないが、それなりの方法論に繋がり得る作品群ができたと思っている。
 そして6月に入り、そろそろインプットに入ろうとしたが恥ずかしながら活字作品にはしばらく触れたくないというほどに疲れきってしまっていた。文学性の高い作品を見ると、つい僕は自身の創作の糧にしようと躍起になってしまう。頭を休めるためには、シンプルな娯楽作品が効くのである。

 

 というわけで娯楽漫画を嗜んでいるのだが、昨今の流行り、というより巨大な1ジャンルと化した「異世界転生物」の話を今日はしていこうと思う。
 ライトノベルや漫画の1ジャンルである「異世界ファンタジー」のなかには、「異世界転生物」と称されるジャンルがある。多くの場合は現実世界に住んでいる主人公がひょんなことから異世界に飛んでしまい、そこで第二の人生を過ごすというコンセプトである。現実世界で死亡して異世界で別の人間として生まれ直す場合は「異世界転生」と呼び、現実世界から同じ人間としてそのまま異世界に移動することを「異世界転移」と呼ぶ。元々ファンタジーの世界の住民である人物が同じ世界に転生する場合も「異世界転生」と呼ぶようだ。「異世界(へ)転生(する)」ではなく「異世界(における)転生」ということだろう。
 この「異世界」というのも様々で、単なる異世界の場合もあればプレイしていたゲームの世界に転生/転移する場合もある。多くに共通しているのは、「スキル」や「ジョブ」や「レベル」と言ったゲームのようなシステムがそのまま世界のシステムとして採用されていることである。ここが曲者で、ゲームに慣れている読者が簡単に世界観を理解できるという利点はあるが、「異世界」を称しておきながら結局は既存のシステムの焼き増しでしか無いという謗りを免れ得ないのである。「異世界転生物」に対して「現実世界で死んだ主人公が死後に見ている夢ではないか」という解釈が発生するのもこれが由縁であろう。主人公がその世界で「生きて」いるのか、それとも世界を「プレイ」しているのかというのは評価に大きく関わる点だ。もし後者ならば、ゲームを買ってきてプレイした方が早いということになる。

 

 ところで、「異世界転生物」には欠かせない要素として「チート」や「無双」と呼ばれるものがある。例えば、主人公が現実世界で得ていた知識を使用して異世界の文明を進化させていくもの。『異世界薬局』は著者自身が研究者であり、漫画化の際に多数の研究者や専門家の協力により作中の説が最新のものであるかを検証しているという優れものである。作中における医学・薬学の知識は深く広く到底理解できないものもあるが、著者が自身の専門分野の知識を包み隠さず披露していく様子は非常に面白い。
 「チート」や「無双」と呼ばれるもので多いのが、主人公が転生/転移した際に超人的な能力を手にするというものだ。多くの魔法を使えたり腕力があったり敵の攻撃を無効化したり経験値を上げたりと枚挙に暇が無い。テイルズシリーズにおけるグレイドを用いた2周目プレイを初めからできるようになる、とでも言えばわかりやすいだろうか。僕が読んだものでは『転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます』がこれにあたる。これは魔術への探究心は人一倍あるが魔術の才能は無い主人公が、国の第七王子に転生し強大な魔力の器を手にしたことで自由気ままに魔術の研究をするという物語だ。たいていの無双/チート作品は盛り上がりに欠けるのだが、この作品は戦闘の描写が非常にかっこよく、マガポケ版ではカラーもふんだんに使用されているため目に楽しい。『BLEACH』に代表されるような「オシャレ感」とでも言えばいいだろうか。また、主人公に合わせて敵も強くなり、魔術にも次々新しい種類のものが現れるため飽きが来ない。また主人公が単に強いだけでなく、研究をすることで過去の魔術を発明した人物に思いを馳せるなど、研究者として共感できる点も好感が持てる。

 

 さて、「異世界転生物」にも数々のジャンルがあり、今書いたのは「チート系」である。その他には「スローライフ系」や「料理系」や『異世界薬局』のような「専門分野系」などがあるが、今回は「悪役令嬢系」と「ハーレム系」から一作品ずつ紹介しよう。

 

 「悪役令嬢系」とは、女性主人公が乙女ゲームなどにおける「悪役令嬢」キャラに転生してしまうというジャンルである。そのキャラは本来死刑に処されたり島流しにあったりという運命にあるため、主人公はどうにかその運命を回避することになる。
 僕がこのジャンルで読んだものは『公爵令嬢の嗜み』である。主人公が乙女ゲームの悪役令嬢になってしまい、島流しに遭うところを機転を利かせることで免れ、その機転を評価されて土地の領主代行の任を与えられるという話である。主人公は現代日本の知識を用いて土地にインフラなどを整備し発展させていくが、悪役令嬢であったがゆえに過去の知り合いたち(乙女ゲームにおける攻略対象の男性キャラ)からの妨害などを受けるという王道のサクセスストーリーだ。政治の腐敗や権力争いなど、現実世界にも通じる話が展開され、正直に言ってしまえば「乙女ゲームの世界」という設定は忘れ去られているようにも思える(乙女ゲームにおける主人公にあたる女性キャラが他国のスパイだったり……)。だが、自身の身に危機が迫ったときに主人公が「前世の私」から「今生の私」への心を切り替える場面は作中において、さらには「異世界転生」というジャンルにおいても重要なものだろう。今生には希望も持てず努力しても無駄であるという絶望感から、巨大な才能を持つ存在に生まれ直したいという欲望が多くの「異世界転生物」を生み出していると推測できる。それはハッキリ言ってしまうと幼稚な欲望だが、そのような幼稚な欲望に縋りたくなるほど現代は病んでいるため仕方がないのかもしれない。その潮流のなかからこのように新しい生でも自己実現と自己変革を必要とする物語が生まれることは喜ばしいことだろう。
 『公爵令嬢の嗜み』は女性主人公が領主代行に就くがゆえに自然と女性のエンパワメントを描いていることも特筆すべき点だろう。漫画はまだそこまで追いついていないが、原作である「小説家になろう」版は既に完結している。たいていの「小説家になろう」作品と同様に小説作品としての筆力は低いが、要点を押さえることは十分にできるため一気に読んでしまった。今後の漫画の展開にも期待したい。

 

 「ハーレム系」は、要するに異世界に転生/転移した男がチート能力などを駆使してハーレムを築くというものだ。そのコンセプト自体が下品で女性蔑視的であったため避けていたのだが、たまにはポルノじみた作品も読みたいと思い手を出した『異世界迷宮でハーレムを』が思ったよりも面白かった。なにせ「ハーレム」を銘打っているというのに2人目のヒロインは漫画にして第6巻まで現れない。1人目のヒロインを獲得するのも2巻であり、作品の大部分は主人公が世界に馴染みシステムを研究し生活を向上させていく過程に割かれる。ダンジョン、スキル、ジョブ、といったゲーム的な世界で主人公は奴隷の少女を手に入れる。「奴隷」という言葉が使われており女性の奴隷は性奴隷としても扱われるという世界観ではあるが、言葉がイメージするほど悪い待遇を当たり前に受けるわけではないようだ(1人目のヒロインが自身の売った商館やそこで世話になった人に愛着を抱いているという描写もある)。世界の経済などのシステムのなかに自然と奴隷制度を組み込んでおり説得力もある。なにより、主人公が奴隷制度を知った際に現代日本の倫理を勝手に当てはめるのではなくこの世界のシステムとして受け入れようとする点が良い。また自身が転生者でありチート的な能力も持っているため、世界の火種にならないように派手な動きは避けるという姿勢も好感が持てる。ヒロインとの性行為に関しても、相手が傷つかないように慎重に接するため嫌な気持ちにならない。原作のなろう小説を読むと「イケメン」に対して軽々しく「死ね」などと毒づく様が不愉快だが、今後の漫画展開では修正されることを祈る。

 

 さて、これまで「異世界転生物」について述べてきたが、主人公が異世界に転移する物語はこれまでにも数多くある。それが一大ジャンルと化したのは、「前世と完全に無関係になる」や「過度なチート能力がある」などの設定が一つの定型と化したからだろうか。例えば短歌において作者が実人生と作品世界との関わりをできるだけ断とうとしている動きを見ていると、この「異世界転生」的な欲望はどこにでもあるということがわかる。結局そのなかでも名作となるものは、新たな「私」の「故郷」はどこにあるのか、という問題に向き合っているように感じる。前世の「私」と今生の「私」との間で宙吊りになりながら漫然と力に溺れる主人公を見ても僕は共感することができない。異世界において余所者である「私」とは一体誰なのか、その問いと向き合うことで初めて「異世界」である意義が――と、結局面白い作品は自身の創作の糧にせざるを得ないのが物書きの性分というものであった。

 

次回更新は6月8日(火)を予定しています。

 

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エヴァンゲリオンと児童虐待の話

 エヴァンゲリオンを観た。エヴァンゲリオン、と言っても様々だが僕が観たのは新劇場版の序・破・Q・シンである。テレビシリーズは数話観たのみで旧劇場版は未視聴であり、漫画(貞本エヴァ)はシンを観た後に全巻読破した。新劇場版以前を観ていない以上は一部の熱狂的なファンの方に眉をひそめられてしまうかもしれないが、どうかご容赦いただきたい。
 僕がエヴァンゲリオンを観はじめたのはシン・エヴァンゲリオンが公開してからのことである。人気作であることは当然知っていたが敬遠していたのだ。その理由は三つほどある。まず、歴史ある人気作を1から学ぶのはそれなりの心構えが必要になること(同じ理由で僕はバック・トゥ・ザ・フューチャーも観られていない)。次に、ロボットらしき存在が活躍するアニメに熱中できた経験が無かったこと(マクロスガンダムも観続けることができなかった)。そして、エヴァンゲリオンでは激しい児童虐待が描かれると聞いていたからだ。

 

 エヴァンゲリオンは、主人公である中学生の碇シンジが疎遠であった父親の元に突然呼ばれるところから始まる。再会の挨拶を交わすこともなく、父親である碇ゲンドウはシンジに「エヴァに乗れ」とのみ告げる。エヴァンゲリオンは地球を侵略し破壊する「使徒」と呼ばれる存在と戦う兵器であり、シンジはその操縦士として選ばれたのだ。しかしそれらのことを初めて告げられた少年シンジは当然戸惑い、エヴァンゲリオンに乗ることを拒否するのである。
 このときゲンドウはシンジに「乗らないのなら帰れ」と告げ、シンジを連れてきたミサトも「父親から逃げるのか」と迫る。極めつけに、代わりの操縦士として現れた包帯まみれの怪我人の少女綾波レイを前にして、シンジは追い込まれる形でエヴァンゲリオンに搭乗する。その後はあれよあれよと言う間に「乗ると自分で決めたのだから責務を全うしろ」と責められたり、最終部で「自分自身の願いのためにエヴァに乗れ」と鼓舞してきた人物に次作冒頭で「エヴァに乗るな」と冷たく言い放たれたり、うっかり人類を滅ぼしかけたりと散々な目に合うのである。周囲の大人たちや同じ操縦士であるレイ・アスカのシンジに対する態度は酷いもので、序・破・Qを観た限りでは「このような人類ならば滅んでも構わないな」とすら思えてしまうのである。
 しかし、シンも含めた新劇場版にて描かれる人類と現実の人類とで何が違うというのだろうか。

 

 ところで、僕が児童虐待に関心を持ったきっかけは平山夢明の短編「おばけの子」である。これは一人の子どもが激しい児童虐待を受け、何一つ救われることなく死んでいくという物語だ。さすが平山夢明と言うべき読後感であり、呆然としながらも僕はある種の心地よさを感じていた。人生は主観的には悲劇であるが、客観的には喜劇なのである。

 

 その夜、丸坊主にされた千春はスチール製本棚の上部に通されたロープで両手を釣り上げられた。足は爪先立ちしかできなかった。口にはガムテープが貼られた。アキオが「そんなに学校に行きたきゃ行かせてやる!」と、千春にダンベルを詰めたランドセルを背負わせた。ダンベルはホームセンターで買ってきた本物で、長時間腕を上げ続け、立ち続けた上、肩に食い込むランドセルを背負わされた千春は金切り声をあげ、苦しみのあまり自分から金属の棚に躯をぶつけ始め、遂には自ら肋骨を砕いていた。(平山夢明『暗くて静かでロックな娘』2015年12月 集英社

 

 
 それから、ニュース番組などで児童虐待の事件や話題を見る度にこの短編を思い出した。その悲劇喜劇入り混じった感情のなかで僕は確かに「児童虐待」を身近に感じることができ、また、少年期に両親が施した「躾」の全てが単なる虐待であったことに気づくのである。
 優れた作品のなかには、暴力を通して暴力の恐怖を描くものがある。「おばけの子」は当然としてエヴァンゲリオンもまた、これを観た多くの良識ある視聴者がシンジに同情する以上は、その類いの作品であると言うことができる。周囲の人物に追い詰められるシンジの心を追体験する構造は、やはりある程度は虐待への問題意識を持たねば成立しなかったのではないか。その点において僕はエヴァンゲリオンを肯定的に捉えることができたのだ。
 あるエヴァンゲリオンの熱意あるファンと話した際に、「人はエヴァを語るとき自分の話しをしてしまう」という意味のことを言われたことがある。それも優れた作品に共通する「あなたの物語」と「わたしの物語」の境界を壊すという作用であり、その例に漏れず僕もエヴァンゲリオンA.T.フィールドを壊されるような心持ちで自分語りをしてしまいそうになる。しかし、やはりそれはまたの機会に取っておこう。

 

 一般的な意味での「家族」とは、血の呪いによって共同生活を余儀なくされた他者集団のことである。そして人生というものが苦である以上は子どもを産むことすらも一つの虐待であるというのが僕の考えだ(もちろん、不幸にも生まれてしまった子どもたちを精一杯幸福にしようと努力することは大人の責務である)。エヴァンゲリオンの操縦士として"選ばれた"シンジたちが「チルドレン」と称されるのは偶然では無い。選べなかった運命の波に揉まれながらも選択をして生きねばならないというエヴァンゲリオンのストーリーは、人間の人生そのものであると考えてよいだろう。そしてこの"生"という苦痛のなかで人間を救えるものは、結局のところ「私」と「あなた」の境界を破壊する試みでしかないのである。

 

 「人と人との繋がり」や「絆」といった言葉があまりにも軽々しく扱われる現代にあって、エヴァンゲリオンではたかだか1親子の対話が行われるまでに幾度も世界の危機が訪れる。新劇場版を全編通して観た僕は、2017年に公開された寺山修司の小説『あゝ、荒野』を原作とした同名の映画にて、新宿新次とバリカン健二がリングの上で殴り合う場面を僕は思い出した。父親の暴力に恐怖し他者を殴る勇気を持てない健二はシンジのようですらある。一方、暴力的だが社交的で感情表現豊かな新次は健二の絶対的な他者として立ちはだかるのだ。碇親子にせよ新次と健二にせよ、他者という「私」ではないものと繋がる過程として暴力を描いたのは共通する。そして、同様の構造の作品が少ないわけではない世の中において、未だに軽々しく寒々しい「繋がり」や「絆」を口にする人物を目にする度に僕は唾を吐きかけたくなるのだ。
 本来、人と人が繋がるためには命を賭すほどの覚悟と精神的な"殴り合い"が求められる。それは疲弊した現代において多くの人々が拒んでいることでもある。だが、拒んできた結果が権力者たちによる歯の浮くような「絆」という言葉であるというのもまた動かしがたい事実だ。それに気づくための「インパクト」がこれまで何度起きてきたことだろう。そして一方で、「コミュニケーションには痛みが伴う」という言葉を利用して強者の立場から一方的な"対話"を迫るような人間も非常に多い。そんな世界で、僕たちは如何様に「繋がる」ことができるのだろうか。

 

誰かを求めることは
即ち傷つくことだった
宇多田ヒカル「One Last Kiss」

 

 

 

次回更新は6月2日(水)を予定しています。

 

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ウマ娘世界の考察と寺山修司の話

 先日、吉祥寺曼荼羅にて大学時代の恩師である福島泰樹先生の短歌絶叫コンサートに行った。貧乏学生ゆえ会費が払えなかったことと、自分が歌人の集まりにとことん向いていないと気づいたために月光の会を離れて、三~五年は経っていた。久々にお会いする月光の方々はあたたかく、また歌会に参加しようかなと思った次第である(もちろん、そのためには僕の歌会嫌いが少しでもなりを潜める必要があるのだが)。
 コンサートが始まる直前、月光の方に近況報告として寺山の横断文学の試みを追体験していることを話した。すると「じゃあ競馬もやらなきゃですね」と冗談めかして言われ、僕は「競馬を元にしたゲームにはハマっていますけどね」と返したのだった。間違ったことは言っていないのだが、どこか相手を騙しているような感覚が湧いた。僕が夢中になっているのは、「ウマ娘 プリティダービー」というスマホアプリである。

 

 「ウマ娘 プリティダービー」は、いわゆる美少女擬人化ゲームである。実在の競走馬をモデルとした「ウマ娘」を、プレイヤーが「トレーナー」となって鍛え上げる。ウマ娘はみな馬のような耳と尾、そして超人的な身体能力を持っており、全員が美少女である。僕たちが生きるこの世界とはパラレルワールドのような関係にあり、僕たちの世界における馬は全てウマ娘に置き換えられている。二本足であるため「馬」という漢字も点が四つから二つとなっており、芸が細かい作品である。
 ちなみにウマ娘世界のレースでは競馬のように観客が金を賭けるということは無い。ウマ娘たちのレースは陸上競技のようなものであり、スポーツなのである。そしてレース後には出走したウマ娘たちによるウイニングライブが開催され、一着を取ったウマ娘がセンターを務めることになる。要するに、アイドルである。
 このゲームと派生作品であるアニメのシナリオはよくできており、実在の競走馬の歴史をなぞりつつウマ娘がトレーナーや仲間のウマ娘と心を通わせながら自己実現を果たしていく物語となっている。それは、ウマ娘が元の競走馬の運命を覆し自らの生を獲得する物語であると言ってもよいだろう。寺山修司は『誰か故郷を想はざる』(一九七三年五月 角川書店)にて「馬は夢など見ない」と書いているが、ウマ娘は夢も見れば敗北の涙も流すのである。商店街の住民たちに慕われながら彼らと自身の夢を背負いターフを駆けるハルウララナイスネイチャの姿に、僕などはたやすく胸打たれてしまうのだ。

 

 ところで、人間並の知能と体格でありながら人間を遥かに凌ぐ身体能力を持つウマ娘は、いかにして人間たちの娯楽空間に閉じこめられていったのだろうか。
 アニメではあまり悪人がいない印象の世界観ではあるが、ゲームシナリオでは現実世界同様に弱い者いじめもあればトレーナーによるウマ娘のモノ化も発生している。長い歴史のなかでは人間によるウマ娘売買や激しい種族間闘争があったとしてもおかしくはない。ウマ娘は僕たちの世界における競走馬と同じ名を持って生まれてくるという設定であるため、その歴史は競馬と同じ長さであり数は全ての競走馬と同じということになるだろう(寺山修司の詩「さらばハイセイコー」に詠まれたハイセイコーもどこかにいるはずである)。いや、ウマ娘の出現から彼女らにレースをさせるまでまた長い歴史があったと推測できるため、実際の競馬の歴史よりウマ娘たちのレースの歴史は遥かに短いものであると考えられる。であれば、ウマ娘の発生初期には彼女らを安全に保護するだけの倫理観はある程度社会に整っていたかもしれない。その頃はおそらく、「人間の突然変異種」という扱いだったのではないだろうか。また、たった一人が発見されたというよりは世界中で同時多発的に発生したと考えた方が作中におけるウマ娘の繁栄も納得ができる。現在でもウマ娘ウマ娘から、あるいは人間から偶発的に生まれていると考えられる。作中に登場するウマ娘の母親はみなウマ娘であるため、ウマ娘が女性を産んだら確実にウマ娘になると考えてもよさそうだ。
 もしも作中で既に確定事項として扱われていることを己の推測のように語っていたら大変お恥ずかしいためご指摘いただきたいのだが、このような想像は留まることが無い。第一世代であるウマ娘たちは、いかにして人間の男性と関係を持つに至ったのか。同時多発的に発生したならば、ウマ娘は未知のウイルスによって誕生するのだという説も生まれたのではないだろうか。超人的な身体能力を持つウマ娘が、人間たちの見世物としての生に人生の意義を見出すのはなぜか。そして、作中において人間でありながらウマ娘に追いつくほどの脚力を見せる女性がいることは、ウマ娘は後天的にもなりうる可能性があるということだろうか。もしそのようなことが起きた場合、人間だった頃の名前はどうなってしまうのか。

 

 これくらいで留めておくが、ウマ娘世界の謎はこの作品の大きな魅力の一つである。実在の競走馬をモデルとしているため過激な二次創作は禁止されているが、歴史を考察することは許されるのではないだろうか。
 ところで、競馬評論家でもあった寺山修司が現在も生きていたらウマ娘をどのように評価しただろうか。性的に過激な発言をして強く批判される様子が目に浮かぶが、あれだけ時代に敏感だった寺山ならば人権感覚も時代に合わせて整えるかもしれない、などと淡い希望を抱きたくもなる。一つ言えるのは、金を賭けないアイドルショーとしての競馬を寺山が楽しめるとは思えないということである。

 

 レースを成り立たせるのは、ファンの魂のなかの「エロス的現実」である。
 それは、ファンの空想のなかに、あらかじめ組み立てられた一つのレースと、現実原則によって規定されたホンモノのレースとのあいだに横たわる「時」の差である。
 人は、その「時」の差に賭けるといってもいいだろう。(中略)私は現実原則によって支配される「確かな現実」、「存在した現実」よりも、常にあいまいに空想されている「エロス的な現実」「無意識的な現実」のほうに、競馬賭博の楽しみを見いだす。(『誰か故郷を想はざる』)

 


 そういえば、ウマ娘の普及により競馬に興味を持つ人間が増えたようだ。僕自身もその一人で、翌日に皐月賞があるとわかるや否や出走馬を調べ、最も人気の低かったルーパステソーロに単勝五〇〇円を賭けた。夢を見るならば勝てないと思われている馬に限るからである。
 しかし、残念ながら結果は十四着であった。そしてレースを見ながら、僕は自分の心がじわじわと冷めていくのを感じた。ウマ娘と違って「勝ちたい」という意志を表明することもなく、自身の人気順も知らない存在に夢を見ることが虚しいことのように思えたのである。
 僕は生きている限りは賭ける側より賭けられる側で在りたいと思うし、自らの運命を蹴飛ばすことができるのは自らの生まれた星を知る者しかいないとも思うのである。それゆえに、実際の競馬よりもウマ娘の方が僕にとっては魅力的に映るのだ。

 

 ウマ娘のなかにも、ウマ娘としての生を覆すためにターフを駆ける者がいるかもしれない。驚異的な末脚でゴール板を駆け抜け、その勢いのままレース場を走り去り、あとは一切を駆け抜けるのみ。そして自らの名前すらも走り去ったとき、彼女はようやく自身の夢を駆けるのである。

 

 

次回更新は5月26日(水)を予定しています。

 

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『サワーマッシュ』と劇場の話

 谷川由里子さんの第一歌集『サワーマッシュ』(二〇二一年三月 左右社)を読んだ。自然に没入し自然を身体化していくような感覚が心地よい歌集だった。

 

太陽がシーツを乾かしてくれるシーツは太陽を忘れない

 

風に、ついてこいって言う。ちゃんとついてきた風にも、もう一度言う。

 

 現代口語短歌は妙に無機質か妙に溌溂か妙に言葉遊びかの三つの軸によるというのが僕の印象で、この「妙」というところに作者の力量が試される。特に現在の傾向としては無垢で傷つきやすい「私」をさらけ出したり、「私」と世界の断絶が内面化されたりといった印象がある。また、「写生」や「リアリズム」と呼ぶには冷めきっており「ニヒリズム」と呼ぶには意志性の薄い客観描写が目につく。木を見る「私」は描けても「私」を見る木を描けないのだ。この、客観呈示とでも呼ぶべき潮流のなかで、谷川さんの短歌は溌溂であり無機質でもありどこか言葉遊びの要素を取り入れながら、「私」と「自然」との交流が描かれているように感じられる。

 

 ところで、僕は客観呈示の潮流が「劇場」の喪失から来ているのではないかと考えている。現実に溺れるほどの情報化社会のなかで、小市民の演じる機会は社会生活を全うするために心を殺す演劇であり、心を生かす演劇があったとしても実際の自分との乖離を生んでしまう。そこに来て短歌が「私」からしか出発できない形式であるとなれば、歌人が紙の上ですら社会生活を生きてしまうというのも、悲しいことながら納得がいくのである。
 例えば僕などはさっさと本名の僕を殺害してその遺灰のなかからペンネームの僕が生まれてくればよいと考えているが、ペンネームの「私」が実際の私ではないという苦しみを抱く表現者は少なくないようだ。このとき、「私」に少しでも実際の私を近づけようとする気力は社会生活が既に奪っているのである。表現者が紙の上ですら夢を見られない時代に、いかなる希望が生まれるというのだろう。
 また、感染症と政府の失策により社会生活が制限されたことでさらなる「劇場」が奪われたことも既に表現者たちに影響を与えていることだろう。宅配で食べる寿司と寿司屋で食べる寿司とでは、同じ店の寿司でも気分が大きく変わるものだ。主人として家のなかに祝祭空間を作ることと客人として祝祭空間に赴くことは違う。言い換えれば、精神的な「旅」を奪われてしまったのが現状である。家という空間でありのままの「私」でいられようがいられまいが、自らの「身の丈」を否が応にも見せつけられてしまう。そのとき、表現者はなおも「夢」を見ることができるか。
 紙の上が舞台である以上、歌のなかの「私」は役そのものであり役者ではない。しかし客観呈示の短歌は、身の丈をわかりきった作者が「私」を演じることへの気恥ずかしさや衒いを抱くことで発生する。過剰な気取りやロマンチシズムの仕草を見せる短歌についても、結局は心から役を演じられていないがゆえのことである。

 『サワーマッシュ』における「私」と自然との交流はそういった意味で劇的である。

 

ルビーの耳飾り 空気が見に来てくれて 時々空気とルビーが動く

 

ほっぺたに当たる風にはほっぺたがある ずっと仲良しでいたいな

 

 ただし、後半になるにつれて段々とこのような歌は減っていく。興味の対象が自然から人へ移っていっただけであり、歌の質が落ちたというわけではないのだが。

 

平日の電車の顔は日陰から日なたに出ると誇らしそう、かな

 

東京も空ひろいよね、空をみて言ったら そうね と、空が もっと

 

 だんだんと断言型ではなくなっていく歌に、世俗の垢を見ずにはいられない。自然への興味や自然を解釈する「私」はなお劇的でありながら、しかし確実に自然が身体から剥がされている。
 続いて、句切れと暗喩の視点から一首。

 

 眺めたときはまだあったのにニューヨークチーズケーキを食べ損ねた

 

 この歌は「ニューヨーク/チーズケーキ」と句切れを挿入することで、歌の背後に滅びたニューヨークの光景を見ることができる。この歌集には全角スペースを用いた歌が多く、それは句切れの他に調子を整える効果があるのだろう。しかし、全角スペースや句点読点を用いない歌に句切れや文法の妙がより発揮されていると、僕には感じられた。最後にそのような歌を二首引用する。

 

かまぼこの形の舟になれるならみるべきものはへんな夢だよ

 

あの世から呼べばこの世の公園の花のパネルもあの世なんだね

 

 

次回更新は5月13日(木)を予定しています。

 

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