灰の森通信

二三川練の感想ブログ

寺山修司というREGGAE~短歌HIPHOP説に対抗して~

 「短歌はラップと似ている」といった話を聞くたびになんとなく面白くない気持ちになる。二者の共通点として挙げられる韻や即興性のような要素は何もHIPHOPに限ったものではなく、「なんだ、それならREGGAEも同じじゃないか」と、HIPHOPよりもREGGAEに熱中した身としては思いたくもなるのである。

 ということで「短歌とREGGAE」について考えていたのだが、じっくり考えてみるとやはり短歌はREGGAEよりはHIPHOPの方が近いだろうという結論になる(その過程については省略する)ため、「ああ、やっぱり『短歌はラップと似ている』でいいか」と納得するわけである。

 ところがここで話は終わらない。寺山修司研究者としてはやはりここで「では寺山修司HIPHOPなのかREGGAEなのか」という問いが生まれてしまうわけで、寺山は歌人なのだからそれはHIPHOPで決まりだろうと思いきや、驚いたことに寺山修司はREGGAEなのである。これについて考えてみると、なぜ寺山修司が今でも未解明なのか、なぜ寺山修司の遺した火を継ごうとする歌人がいないのかが見えてくるような気がしてくる。そのため、REGGAEもHIPHOPも多少かじった程度の身であることは申し訳ないが、ここに寺山修司とREGGAEに関するちょっとしたお喋りをしてみようと思う。

 

 HIPHOPとREGGAEという二つのスタイルの違いは、自己引用にあるだろう。特にMCバトルを見ると顕著で、Deejayは自身の楽曲からの引用(いわゆる「ネタ」)が非常に多く、即興を重んじるRapperからその点を指摘されることなどは茶飯事である。REGGAE版のMCバトルと言えるDEEJAY CLASHでは対峙する二人があらかじめ多くのネタを仕込み、実に30分近くのバトルを行うのだ。これは即興性を重んじるHIPHOPの視点からは考えられないことかもしれない。

 この自己引用というスタイルについては以下のMCバトルを見るとわかりやすいだろう。

 

 

 このバトルで使用されたリディムは「Reggaelypso」であり、DeejayであるRAYはこれを使用した「JUMP UP」という楽曲をリリースしている。

 

 

(ちなみに「Reggaelypso」については以下の動画より)

 

 

 REGGAEの自己引用は、その場の文脈において最適な自身のフレーズを選び取るものである。サンプリングはHIPHOPでも盛んな行為だが、引用そのものを作品に昇華するのはREGGAEならではと言えるのではないだろうか。MCバトルに出場するDeejayのなかにはPOWER WAVEやMAKAなど即興性を重んじる者もいるが、CHEHONやRAY、APOLLOなど即興を混ぜながらいかに自己引用で場を盛り上げるかといった者がほとんどであると言っていいだろう。

 そして即興性と自己引用の融合として、2023年渋谷レゲエ祭vs真ADRENALINEにおけるREGGAEルールでのCHEHONのバースは一つの到達点にあろう。

 

 

 このように、自らの言いたいことを主張する際に自己引用を重ねるという手法は、寺山修司が自身の作品で繰り返し行ってきたことと同様である。俳句から短歌へ、短歌から詩や映画へと自己引用を繰り返した寺山修司の文学的本質はそのジャンル横断への野心にある。現在では短詩型創作者が短歌や俳句、川柳といった複数の形式に手を出すといった光景は当たり前だ。しかしその多くがHIPHOP的な即興性こそを重んじており、REGGAEのような自己引用ひいては寺山ほどの横断の意識を持つ者は、ほとんどいないのではないだろうか。

 

 寺山の野心であった横断文学は、「ロミイの代辯」で語られた「現代の連歌」における「新ジャンルの復活」と深く関係している。五七五の俳句に七七を付けることで短歌を創作するという方法論は、検討段階ではあったもののたしかに寺山の根幹をなすものだった。

 そもそもの連歌(現代においては連句の方が主流かもしれない)は複数人が五七五と七七を続けていく文芸であり、僕の連句の先生はこれを「世界で唯一の集団文芸」と語っていた。僕もこれに異論はなく、常に他者の言葉を引用することで様々な世界を描いていくというその性質は短歌連作にも応用されるべきではないかと考えている。

 ところで、集団で一つの作品を作る文芸ジャンルはたしかに連歌連句)しかないだろう。では、音楽ではどうだろうか。ここで以下の動画を見ていただきたい。

 

 

 皆さんにも聞き覚えのあるフレーズが入っていたのではないだろうか。これはRUB A DUB(ラバダブ)というREGGAEの形式であり、一つのリディムのなかでDeejayたちが即興で自身の持ち歌をアレンジしながら繰り出すというものだ。REGGAE版フリースタイルといえばわかりやすいだろうか。

 HIPHOPにおけるサイファーとREGGAEにおけるRUB A DUBは他者の言葉から自身の言葉を紡ぎ、変化を続けていくという点で連句的性質を持つ。両者の違いとして、サイファーが即興性を重んじる一方でRUB A DUBは他者からの引用と自己引用を繰り返す性質を持つ。また個人的には、作品としての完成度はRUB A DUBの方が高いように思う。それらを鑑みると、寺山修司の映画『書を捨てよ町へ出よう』や『田園に死す』、長編叙事詩『地獄篇』などといった多くの作品は、過言を恐れずに言えば、寺山修司によるRUB A DUBであるという見方を否定できない。

 

 現在、歌人による寺山論は膨大である。しかし、横断文学という寺山の野心を見抜きその火を継ごうというほどの意志ある論はほとんど存在しない。その原因について考えていたのだが、僕の仮説としてはやはり「歌人HIPHOPの立場から寺山修司を語るから」というものが有力である。即興性や自己を劇的に演出するという点ではたしかにその立場も間違いないだろうが、それだけでは自己引用の問題から遠のいてしまう。もしあなたが寺山修司について何かを論じようとするならば、今一度REGGAEに立ち返る必要があるだろう。

 

 ところで、REGGAEと寺山修司の共通点はまだある。先に掲載したMCバトルの動画でRAYが歌っていたように、HIPHOPのバトルの主眼は勝敗にあるが、REGGAEはいかにステージと観客を盛り上げたかに主眼が置かれる。DEEJAY CLASHも相手をディスり合うバトルではあるものの、公式で勝敗は決めず「あっちが勝った、いやこっちが勝った」などと観客同士で議論することがその楽しみ方とされている。つまり、REGGAEは観客とともに楽しむという意識がより強いと言えるだろう。

 そして寺山修司が「短歌における『私』の問題」にて岡井隆に指摘した「私の拡散と回収」もまた、読者と一体になって作品を形成する試みであった。この手法は、まず作者が全体的な「私」、その「幻の私像」のイメージを持った上でその「私」の断片を短歌連作のなかで拡散させる。次にそれを読者が回収作業を行うことで全体的な「私」が完成する、というものである。

 この、短歌を全体文学とするための寺山修司の方法論に対し、岡井隆は「短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。」と述べ、作者と読者とを分断してしまった。思えば、短歌がHIPHOPの道を辿ることになった理由は岡井のこの発言にあるのではないだろうか。それはまた、短歌が全体的な「私」――あらゆる「私」を横断する「私」になりえる道を閉ざした原因であるとも言い換えることができる。

 

 僕は何もHIPHOPとREGGAEと優劣を語りたいわけではない。ただ、HIPHOPの道を歩んだ短歌がここでREGGAE的精神へと横断した際に何が生まれるのかを見てみたい。もちろん、現在において拡散された「私」を回収するほどの意志ある読者がどれほどいるのかについてははなはだ疑問ではある。それでも、寺山修司に惹かれた以上は誰かがその火を継がねばなるまい。

 

 寺山修司がスクリーンの向こうから「何してんだよ」と挑発する。RED SPIDERがステージの上から「お前ら葬式来たんか!?」と罵倒する。では、個の時代の果てに「個」すら失いかけている私たちは、紙の上から何をやるというのだろうか。

 

ヘタレの都合知らんがな 弱いもん見つけて威張んなや

やってもないのにひがむなら 買っとけ自分の墓の彼岸花――「顔面蒼白 feat. APOLLO, KENTY GROSS, BES」