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寺山修司はなぜ川柳を書かなかったのか~現代川柳の横断可能性について~

※この評論は文学フリマ東京2022春(2022年5月29日)で配布された「月報こんとん」文フリ特別号に掲載したものです。加筆修正などは行っておりませんが、ブログ記事にするにあたり傍点の表記やレイアウトなどを調整しております。

 

 寺山修司はなぜ川柳を書かなかったのか~現代川柳の横断可能性について~

二三川練

  序章

 寺山修司(一九三五―一九八三)が短歌や現代詩、演劇や映画など様々なジャンルで大きな功績を残したのは周知の通りであり、現在に至るまで多くの研究者や識者が寺山についての研究を行っている。論者自身も横断文学者としての寺山修司の研究を行い、その文学的本質や寺山が試みた全体文学への展望を明らかにした(1)。その過程で論者が抱いた疑問の一つに、寺山はなぜ川柳にほとんど触れていないのかというものがあった。後述するが寺山は短歌創作論の一つに「現代の連歌」を掲げており、句切れを駆使することで俳句から短歌への横断を実践した作家だ。連歌への意識を持っていた寺山がなぜ俳句にだけこだわり川柳には手をつけなかったのか。その疑問は、昨今の川柳の流行を見ながらさらに強まっていった。

 流行、という言い方は以前より精力的に川柳を書き続けてきた柳人たちに失礼かもしれない。だが、歌人である論者から見た際に、川柳を読み川柳を書く歌人が増えてきたのは確かである。そのきっかけと言えるのが、二〇一七年五月六日に中野サンプラザにて行われたイベント「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」だろう。本イベントは歌人である瀬戸夏子と柳人である小池正博の対談を中心として、現代川柳の魅力について語らうというものであった。論者は出席していないがこのセンセーショナルなタイトルと共にSNSなどで多くの歌人が川柳について述べていたのを記憶している。

 なお、本論が掲載される「月報こんとん」の主宰である暮田真名も自身のnoteにて「『瀬戸夏子は川柳を荒らすな』イベント内ミニ句会にてはじめて川柳を作る」と記している(2)。それが次の句である。

 

印鑑の自壊 眠れば十二月

 

 この句を見たとき、論者は寺山修司の次の俳句を想起した。

 

かくれんぼ三つかぞえて冬となる

蛍火で読みしは戸籍抄本のみ(3)

 

 

 「眠れば十二月」と「三つかぞえて冬となる」は発想が非常に似通っている。また、「印鑑」を「私」の証明と捉えると「戸籍抄本」という事物と繋がる。「私」の証明の「自壊」と、「私」の証明への執着を描くような「蛍火で~」の句は正反対のようだ。だが、「故郷喪失」という主題を描いたその後の寺山の作品群は「印鑑の~」の句と近しいものを持つのではないだろうか。ここで論者が直感したのは、暮田のこの川柳が短歌や現代詩といった様々な形式を横断する可能性である。

 さて、問いたいのは、「寺山修司はなぜ川柳を書かなかったのか」という問題である。

 先に述べた通り論者がこのような疑問を持つのは、俳句、短歌、現代詩、小説と文芸の主な形式と呼べるものは全て通っている寺山が川柳だけはすり抜けるかのように作品を残していないからだ。また、寺山は「ロミイの代辯―短詩型へのエチュード―」にて「現代の連歌」という方法論を挙げており(4)、連歌連句)の付句を起源とする川柳への意識が全く無かったとは考えづらい。

 ちなみに、この「現代の連歌」は俳句に七七を付けて短歌を創作するという手法であり、寺山はこれについて「どれもテーマある現代詩的可能性を持ちうるのではないか」とその横断可能性への期待を示している。実際の作品は次のようなものである。

 

アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちていむ

蛮声をあげて九月の森にいれりハイネのために学をあざむき

夾竹桃咲きて校舎に暗さあり饒舌の母をひそかににくむ

 

 無理やりこじつけるのならば、これらの短歌を発句に七七の脇句を付けた連歌(すなわち短連歌)と捉えることで「母は故郷の田を打ちていむ」「ハイネのために学をあざむき」「饒舌の母をひそかににくむ」を寺山が遺した七七句の川柳であると解釈することも可能だろう。だがもちろん、これらを文学的に高く評価するというのは難しい。寺山自身、これら七七句を独立した作品として書いてはいないはずだ。

 なぜ寺山は川柳を書かなかったのだろうか。本論では、寺山が連歌への意識を持ちながら川柳には手を出さなかった理由を探るために、その川柳観を辿る。その上で、現代の川柳の文学的性質を解読し、その横断可能性及び課題を追究する。

 

  第一章 寺山修司の川柳批判

 寺山修司の川柳観については、福田若之「〔ためしがき〕寺山修司にとっての川柳」(5)に詳しい。福田はここで寺山修司「川柳の悲劇――現代俳句の周囲」(「青高新聞」一九五四年二月九日。本論での引用は『寺山修司の俳句入門』(二〇〇六年九月 光文社)より)を引用し、「寺山はこの文章で、桑原が芸術の名の下に俳句を非難した(論者注 桑原武夫「第二芸術―現代俳句について―」)のとほとんど同様の仕方で、俳句の名の下に川柳を非難しているように見える」と述べている。実際にその本文を見てみよう。

 まず、寺山は佐藤狂六による俳句と川柳が接近しているという旨の発言を承けて、「この程度の川柳が現代俳句への接近といわれ、それによって現代俳句の限界が価値づけられることのおそろしさと、川柳作家たちの自己満足への不服から一寸したラクガキをしてみる気になった」(6)と述べている。福田はこの「現代俳句の限界」に「第二芸術」の文脈を読み取り、「寺山の狙いは現代俳句を現代川柳から切り離すことで芸術への回帰を図らせることだったのではないかと思われて来さえする。だが、もし、第二芸術として告発された現代俳句がその称号を現代川柳に押し付けることによってその芸術性を主張するのだとしたら、それは恥ずべきことではないだろうか」と批判している。たしかに現代川柳への批判をもって現代俳句の価値づけを行うのは本質的な現代俳句の擁護にはならないだろう。一方で、寺山がこの文章を載せた一九五四年二月は、寺山が「短歌研究」一九五四年四月号に掲載された中城ふみ子「乳房喪失」を読み衝撃を受ける以前のことである。つまり当時生粋の俳句少年であり現代俳句への野心を見せていた寺山が、その野心と誇りを他ジャンルへの批判という形で表してしまうのも心情的には理解できる。では、実際の批判内容を見ていこう。

 

第一に川柳は五・七・五のわずか十七字に限られていること、そしてその十七字が江戸の柄井川柳の始めから二十世紀の今まで、一つの切れ字も公認されていないことである。「俳句は切れ字ひびきけり」というのがあったが、たしかに切れ字のない俳句はリズムに乏しいといえるようである。

  死なば野分、生きていしかば争えり  楸邨

  海に鴨、発砲直前かもしれず     誓子

 これらに「、」を示した部分の切れ字がなかったらどうだろう。前者は文語文になってリズムを失い、後句は象徴がなくなって全くねらわれたカモの句になってしまうのではなかろうか。川柳の切れ字なしの法則は、江戸以来のマンネリズムをかもしだした最も大きな原因となるだろう。(7)

 

 まず、寺山は俳句と川柳の違いを切れ字の有無としている。この主張に対して福田は「『切れ字』がないことには芸術上の欠点ばかりではなく、利点を見出すこともできる。たとえば、それは修辞に関してのより柔軟な選択を可能にするだろう」「俳句の切れ字もまたそれによって江戸以来のマンネリズムをかもしだしていないなどと主張することが果たしてできるのだろうか」と反論している。たしかに寺山の例は俳句から切れ字を抜いたらどうなるかという話であって川柳それ自体への批判として見るには説得力に欠けている。しかし、寺山の句切れへのこだわりが後の作品群において重要な意味を持っていることも確かである。「切れ字」を「句切れ」に置き換えた際に、現代川柳において句切れを使用した作品が多く存在している点を見ても、この寺山の批判は一考に値するのではないだろうか。

 さて、続いて寺山の川柳批判はその表現内容にまで至る。

 

私は俳句に自己の文学性の一〇〇パーセントを賭けて作家活動をしている人は沢山聞いているが、川柳にその一〇〇パーセントをかけた人は聞いていないのである。モチーフが果して自己を表現することに焦点を合わせたものが今まであったか。私は残念ながらそれも今までは聞かなかったような気がする。

 つまり川柳が同じ五・七・五を保ちながら、発生以来、芸術らしき所作を避けたために、それ自体作家の哲学性をも、美術、音楽性をも醗酵させるには至らなかったことを私はかなしみたいのである。(8)

 

 モチーフと自己表現の問題については、「ロミイの代辯―短詩型へのエチュード―」に記された短歌の方法論「第三人物の設計」における「記録は自己を決して拓いてくれないしその場のオブジェが必ずしもその場のエモーションを暗示するのに最高のものとはかぎらない」(9)という記述が補助線となるだろう。以後の寺山が俳句においても短歌においても単なる生活記録としての作品を批判し続けたのと同様のやり方で川柳を批判しているのだ。

 そして、寺山は「俳句が川柳に似てきたと考えるのは川柳作家にとっては早計であろう」として、次のように述べる。

 

俳句のヒューマニズムは川柳の人情とは別個のものだと信じるのは決して俳人ばかりではないだろう。よし川柳が俳句的な風景描写をこころみたとしても、その裏に思想や自己抽出がなければ無価値であり、もしあったならば、それは川柳ではなく俳句になっているだろう。

 川柳のアイデアは大抵の場合浅く、そして詩情がなく、決定的な打撃は愛誦的な価値に乏しいということである。

(中略)

 そこで、詩のない文学、切れ字と季感のない俳句である川柳を趣味以上たるべき方法として私が考えたことはこんなことである。

 第一に知性をもちたいということ。更に一つの方向と課題をもつことである。(10)

 

 一九五四年十月の「牧羊神」第六号に掲載された「光への意志」にて、寺山は「俳句的人生」を呼びかけ「人生を俳句に接近させること」「在ったことではなく、見たことを俳句とし、つねにそれを私ら人生の『前』avanに置こうとたくらんだ」(11)と述べている。これは先に述べた短歌の方法論「第三人物の設計」における「自己の前に生活する自己の理想像をおき、自己をそれに近づけてゆくことが、真の意味で自己に対して誠実でありしかも現代文学の明日を背負っているパターンではなかろうかと考える」(12)という記述と大きく一致する。つまり寺山にとっての「俳句のヒューマニズム」とは、風景描写を思想や自己抽出を通した「自己の理想像」の設計へと発展させ得るものであったと考えられる。

 ここで書かれた川柳批判は苛烈である。福田はこれに対し「寺山は、五・七・五の形式をもつジャンルを彼にとって価値のあるものと価値のないものとにあらかじめ二分し、片方を『俳句』、もう片方を『川柳』と呼びながら、後者を価値がないとして非難しているのである」と指摘しており、ここでの「川柳」と「俳句」の関係をプロレスに例えた上で「川柳」を予め敗北することを約束された「他所から呼ばれたヒール」と称している。

 寺山の川柳批判のなかには具体的な川柳作品が一句も登場していない。それゆえにこの批判はいささか一方的なものであるし、あるいは福田の言うように俳句を第二芸術論から守るために川柳を身代わりにしたとも考えられる。だが、論者は寺山の批判が全くの的外れであるとは考えていない。

 なぜなら、現時点における現代川柳の多くは、ここで述べられた川柳の問題点――切れ字(句切れ)の問題、モチーフの問題、思想と自己抽出の問題を克服することで文学作品たり得ているからである。そしてこの克服によって、寺山は後に川柳への認識を改めたのだと推測する。次章にて詳しく見ていこう。

 

 第二章 現代川柳の横断可能性

  第一節 川柳と落書き

 さて、前章では若き寺山による川柳批判を紹介したが、その五年後の一九五九年、寺山は「俳句研究」十二月号に掲載した「ANDER-DOGたち」にて川柳に対する新たな見方を提示している。

 

☓月☓日

「天馬って知ってるか」

 と友人が言った。

「あゝ」と僕は答える。

「意欲的(論者注 「意欲的」に傍点)なやつだな」

「(天馬の行き方は声明にあった如く、川柳とは一線を引いた行き方になっています。これは詩性を重要視するからです)ってかいてあったぜ」

「川柳は落書きだ」と僕は呟く。

「え?」

「川柳までお芸術(論者注 「お芸術」に傍点)になることはないんだ」

 彼は壁にかけてある僕のバンジョーをはずしてばらんばらんとならした。

「そんなもんかな」

「そうとも」と僕はつけ加えて、「川柳の生き残る道は、万人が作者になり、歴史というとてつもない大きな土蔵の壁に落書することなんだ」

「観念的な奴だな」と彼は笑った。

「この頃の川柳は前衛俳句と変らんぜ」

「だからこそ」と僕は言う。

「俳句は呪文のように難解になればいいさ。キサスキサスだのケセラセラだのという言葉のように生という宗教の呪物になってしまって芸術性を獲得してもいい。だが川柳は、川柳はちがう」

「いやに川柳を買い被ったね」

「川柳は批評だ」と僕は言った。

「いいか、もし川柳に独自性を見出すとしたらそれは対象を批評で変革しようという意志をシンプルにしたものだ。落書の精神だ」

「芸術じゃいかんのか」

「きみは芸術を買い被りすぎているんだ」

 彼はまたバンジョーを鳴らした。

 ばらん、ばらん。(13)(傍点ママ)

 

 ここで寺山は川柳に新たな価値を見出している。「天馬」は一九五六年十二月に創刊された同人誌だ。小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房 二〇二〇年十月)の「現代川柳小史」にて小池は河野春三と中村富二以降が現代川柳のはじまりであるという立場を取った上で、「『天馬』の時代は春三のもっとも脂が乗った時期で、『現代川柳』という呼称が定着したのもこのころだ」(14)と述べている。特に小池の次の記述は重要だ。

 

 それでは春三の目指した「現代川柳」とは一体どういうものだったのだろうか。「川柳に『私』が導入されたときに川柳における『詩』がはじまった」という意味のことを春三は言ったそうだ。「私性」即「詩性」である。また、川柳を「人間性の探究」「社会批判詩」ととらえ、川柳文学運動を巻き起こそうとした。(15)

 

 「人間性の探究」は寺山が「川柳の悲劇―現代俳句の周囲―」にて求めた「思想や自己抽出」と重なり、「社会批判詩」は「対象を批評で変革しようという意志」と重なる。寺山は個人名を出してはいないが、河野春三が参加していた「天馬」を評価するのも頷ける。実際に春三の川柳を見てみよう。

 

水栓のもるる枯野を故郷とす(16)

 

 戦後の焼け野原を彷彿とさせる情景だ。焼け残った水栓から水が垂れ、そこを「故郷とす」とあることから変わり果てた故郷へのやるせなさと再出発への意志が読み取れる。そしてこの句に対し、寺山の次の短歌を引き合いに出さないわけにはいかないだろう。

 

一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき(17)

 

 寺山が「短歌研究」第二回五十首募集(後の短歌研究新人賞)で特選となった連作「チェホフ祭」(18)の第一首である。この二作品の類似については一目瞭然である。また、一九六〇年以降の作品ではあるが春三に次の川柳がある。

 

おれの ひつぎは おれがくぎうつ(19)

 

 そして寺山に次の俳句。

 

枯野ゆく棺のわれふと目覚めずや(20)

 

 この二作品における死してなお「おれ/われ」を見つめるという「私」の在り方の共通性は注目に値する。推測だが、寺山修司は「天馬」そして河野春三に何かしらのシンパシーを抱いていたのではないだろうか。春三の川柳は、少なくとも「モチーフ」や「思想と自己抽出」といった問題は克服していると考える(切れ字を句切れと考えると「おれの~」句は切れ字の問題にも応えていると言える)。そしてそのシンパシーから川柳に対して「落書」という新たな可能性を見出したのではないだろうか。寺山は様々な文章で「落書」とその価値について述べており、この「落書」という表現が寺山にとって重要であることはもはや言うまでもない。今一度その意義について見ていこう。

 

 ところで、一般に、落書、落首というものは、その「無私性」に特色を持っていると考えるのが常識になっている。そして、多くの評論が原理的にそうであるように、落書もまた、その無私性によって高い批評精神を評価されてきたのである。

 私は、かつて聚楽第の正門へしのびこんで、匿名で、「おごれるものは久しからず」と秀吉批判をした落書の人を愛するが、彼の命がけで落書しに忍びこんだほどの切実感、緊張感を、現代の落書家たちは持っているだろうか?

 もって言葉を極めて言えば、今日、文学作品の中にさえ、命の危険をかけてまで「言わねばならぬ」ことを持った作者を何人探し出すことができるであろうか? ということが問題である。

 そして、それらの作品に、自らの名を著さねばならぬほどの自分個人の内的責任を負った文学作品が今日の文学を形成しているだろうか? と考えると、私ははなはだ絶望的にならざるを得ないような気がするのだ。(21)

 

 寺山が「短歌」一九六三年三月号に掲載した「『私』とは誰か?――短歌における告白と私性」からの引用である。なお、この評論は『遊撃とその誇り 寺山修司評論集』(三一書房 一九九一年九月)に「短歌における『私』の問題」と題を改めて収録されている。本論での引用は「短歌における『私』の問題」に基づく。

 この文章のなかで、寺山は落書きの特色を「無私性」にあると語っている。それは春三が目指した「『私性』即『詩性』」とは真逆の方向性と言ってもいい。つまりこの時期の寺山は川柳に一定の価値を見つけながらもその方向性には共感しなかったと言える。それは「落書」を愛しながらも自身の作品では「私」にこだわった当時の寺山の姿と重なるように論者には考えられる。なんにせよ、当時の寺山にとっては「私」の拡張こそがテーマであり、それゆえに「無私性」へ至ることを期待した川柳には手を出さなかったと推測することは可能だろう。

 「『私』とは誰か?――短歌における告白と私性」はここから本文は生活記録短歌への批判、そして全体文学の構想と「私の拡散と回収」という方法論へ発展する。これについて論者は過去の論文で記したため詳細を割愛するが、その方法論が「作者の中にある全体像のイメージ、『幻の私像』が存在しているということであって、その全体像のイメージが一首一首の中の私的具象性を持って拡散されてゆく」(22)というものであることは触れておこう。なぜなら、この全体文学の試み自体が、落書きの「無私性」へ接近していくものであるからだ。

 

  第二節 滅私の「私」へ

 さて、前節で寺山は落書きの特色を「無私性」にあると述べていたが、後年の寺山が注目したのは「滅私」という概念である。これは、短歌の自己肯定の性質や「私」のなかに「他者」を持てないという問題に苦悩した寺山が、短歌との別れを経た後にたどり着いた考えだ。亡くなる直前の座談会「歌の伝統とは何か」(「國文學―解釈と教材の研究―」一九八三年二月)にて、寺山は次のように述べている。

 

 また短歌を作ってみようかなという気が起きているんですが、発表できるような形にはなかなかまとまらない。

 過去の自分を模倣するという形でしか短歌が出てこない。このことはわりに重要だと思うけれど、短歌は意識する、しないに関わらず自己肯定の文学で常に内面化の方向に向かっていく。

 つまり、病気にでもならない限り、「個」と「個の内面性」への退行は自己を密室化し、閉鎖的にしていく傾向があるということに反撥している。(中略)しかし、身体が病むと「個」の問題が再燃してくる。そしてそれは、現在短歌をやっている人間たちの中にも根強くある内面化への衝動と無縁ではないと思う。これを文化の問題として考えた時に、内面化に向かう膨大なエネルギーは、社会的か、反社会的かと疑ってかかってもいいんじゃないか。(23)

 

 僕はいつも不思議だと思うのは、短歌は非常に内面化していて、ある意味で自己肯定でしか成り立たない要素を持っているにもかかわらず、社会的な事件が起こると形式ごと巻きこまれてゆくということです。

(中略)

 「私」と他との関係についてあれだけ敏感なのに、戦争があった時には画一化してしまうでしょう。要するに滅私と内面化の極限は、ある意味で同じものなんじゃないか。(24)

 

 短歌の性質を「内面化に向かう膨大なエネルギー」と捉え直した上で、その内面化と「滅私」の極限が「同じものなんじゃないか」と述べている。ここで寺山は滅私の「私」という可能性に行きつき、その後再び俳句創作を行おうとする(25)。それが叶うことは無かったが、寺山は後世を生きる論者たちへ滅私についてのヒントを遺している。

 

 もともと、あらゆる物語は書かれつくされてしまっていたのである。これからの作者の仕事は、消すという手仕事でしかない。

 どの部分を消し残すか、ということが作歌のたのしみに変ってゆくことだろう。

 この二、三年のあいだ、私は自分の歌を消す作業にばかり熱中しているように思われる。それは所詮は、孤立した個の中への退行の歩みにほかならないのだが、一首の周辺から消してゆくことで、作者の内部を活性化するという試みが、五を消し、七を消し、この歌をも消してしまうことになる。

 そして、折角三年間には三〇〇首できていた「新作」が、今では五首も残らず消しつくされ、おかげで私自身はますます元気になってきた、という訳なのである。(26)

 

 「國文学―解釈と教材の研究―」(一九七七年二月)に寺山が寄せた「個への退行を断ち切る歌稿 一首の消し方」の記述である。滅私とは「消し残す」という行為であることが示されているが、この文章を読んだとき、論者はふと川柳の存在を思い出したのだ。

 そもそも川柳は連句の付句を源流とする形式である。つまり、かつては前句の存在を前提としていた一句が、前句を喪失することで生まれた形式であると言える。つまり、川柳とは「消し残された付合」なのではないか、というのが論者の川柳形式の解釈である。

 もちろん、川柳は長い歴史を経ておりもはや連句と紐づけて論じるのは難しいかもしれない。しかし、現時点における現代川柳が、滅私の「私」に接近しているのも確かである。暮田真名は「川柳は(あなたが思っているよりも)おもしろい」(27)のなかで、「サラリーマン川柳の『笑い』を支えているのはおびただしいほどの固定観念規範意識である」とした上でなかはられいこの川柳について次のように書いている。

 

かつがれて春の小川になってゆく/なかはられいこ

 

朝焼けのすかいらーくで気体になるの

 

またがると白い木槿になっちまう

 

 これらの川柳では、人は「サラリーマン」である必要も、「男性」である必要もない。それどころか、人のかたちを保つ必要もない。川柳は人を絶え間ない変身に駆りたてる。川柳のなかで、私は「春の小川」になったり、「気体」になったりする。温度の変化によってかたちを変えていく水のように、少しの条件の違いによって。姿を変えられるのは私だけではない。私以外の人も、たとえば「白い木槿」へとたちまちに変身する。これは「サラリーマン」が明日も「サラリーマン」であり、「上司」は明日も「上司」であり、「妻」が明日も「妻」であるようなスタティックな世界観とは正反対である。

 

 現代川柳は、言うならば「私は何にでもなれる」という形式である。それは滅私の「私」とは正反対のようだ。しかし、これは言い換えれば「私は何者でもない」であるとも言える。暮田は川柳における「あなたが誰でもかまわない」という性質に注目しており、「『あなた』が何者であるかを明らかにする必要がない」(28)とも述べている。これは、自らの署名を消し去る行為でもあると言える。寺山は「『私』とは誰か?――短歌における告白と私性」のなかで、「落書の無私性に対峙するのは、当然、文学作品に著された作者の名である」(29)と述べている。暮田の「あなたが誰でもかまわない」という考えは、この「作者の名」を作品から消す――川柳を「落書」へと向かわせる思想ではないだろうか。

 暮田はさらに平岡直子の「Ladies and どうして gentleman」という句を挙げて、「人のあり方をぐらぐらと沸騰させる川柳は、やがて社会通念をも揺り動かす。『Ladies and gentlemen』、この社会で強固に当然視されている『女と男』の組み合わせに『どうして』を差し挟むことだってできるのだ」と、その批評精神についても述べている。これらを踏まえると、川柳が元来持っていた人情――大衆性が「サラリーマン川柳」のような閉鎖的な共同体を乗り越え、「何にでもなれる」という全的な「私」へ至ろうとしていると考えられる。

 だが、同時に現代川柳は未だ全体文学には至っていないとも論者は断言する。そこに残る課題とは何であろうか。

 

 第三節 川柳は「滅私の落書き」足り得るか

 さて、この節では実際に現時点における現代川柳の作品を見ていこう。なお、引用は小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房 二〇二〇年十月)から行い、寺山の切れ字批判に応え句切れを持つものを対象とする。

 

水平線ですかナイフの傷ですか   石田柊馬

 

月揺れて不意に疑う指の数     加藤久

 

五・七・五きみも誰かの素数です  川合大祐

 

残酷は願うものなり伝言ゲーム   榊陽子(30)

 

 前半二句は「現代川柳の諸相」から、後半二句は「ポスト現代川柳」から引いた。これらの句を見ると先に挙げた「あなたが誰でもかまわない」という性質が現代川柳の根幹にあるように考えられる。川柳のなかでは「水平線」と「ナイフの傷」の境界が消える。不意に指の数が正しいか不安になる。「きみ」が「素数」になり、「残酷」は「願うもの」となる。作者により既存の定義が揺さぶられ、新たな定義を提示されるのだ。

 特に後三句の句切れは効果的である。「月揺れて」は素朴な描写でありながらも奇妙な現象が起きている。この奇妙さを自然と読み下すことで、中七下五がその不安感を増幅させる。三句目は一度読み下すことで「五・七・五」すなわち川柳定型が「(あなたの/わたしの)素数」であることを示し、その発見を「きみ」へと拡張させる。この二句における句切れは句の説得力を増幅し作者の認識を読者に共感させる働きを持つ。そして四句目の句切れは絶妙な取り合わせである。伝言ゲームは多くの場合、初めの話者の意図と最後に聞いた人の認識した意図とが食い違うことの比喩に使われる。言葉の解釈や読解力、表現力の差異が意図を歪め、誤って伝わることは「残酷」であると言えるし、何よりも伝言ゲームはその参加者が「残酷」を願わないことを前提としている。「伝わらない」という不安感にコミュニケーションの前提を崩壊させるような意志が加わり、読者にその不安を伝染させる。単なる定義ではなく、そこから叙情へ発展させているのだ。

 これらの句に見られるような再定義とでも言える性質について、柳本々々は「壊喩」という表現を使い分析している。

 

AはBである、といいつつも、そのAをBに、BをAに同化させることなく、分離させたまま、そういう出来事として、認知してゆく。似ている/似ていないの隠喩(メタファー)でもなく、部分/全体の換喩(メトニミー)でもなく、壊喩(つなぎつつ離れながら・こわし、こわしながら・つなぎつつ離れる)、とでもいったようなもの。

(中略)

 どんなに絶対的なものでさえ、感想として相対化しつづけること。だから、分離したままでも、AとBがくっつく可能性を求めつづけられること。

(中略)

 川柳は認知にかかわっている。ただその認知はあらかじめ間違っていて、こわれてもいる。でもそうわたしが決めたこととして、その世界を展開する。交換できるものと交換できないもののあいだをいったりきたりする。そのあいだの認知をさまよう。光がいっしゅんあらゆるものを照らし、きえるように。(31)

 

 この「壊喩」という概念は、現代川柳の先鋭化した取り合わせ/二物衝撃の手法を言い当てている。例えれば磁石の同極同士を無理やり紐でつなぎ合わせたような危うさ、その不安定さが現代川柳の特質であり、読者へ響くものとなっているのだろう。そして壊喩を成立させているのが五七五あるいは七七という川柳形式の短さであり、速度である。この速度は作者の直感から自我=「私」の形成を待たずに作品を成立させる。ゆえに川柳から「私」は消える。その代わりに剥き出しの内面がまざまざと現れる。つまり、現代川柳に「私」は表れないが強烈な作者の個性だけはそこに残るのである。これこそが、「無私」の叙情である。

 ここから言えるのは、現代川柳は「私は何にでもなれる」という直感の形式であり、「何にでもなれる私」という具体的な「私」像を拡散し、回収するものではないということだ。そこに「無私」と「滅私」の違いがある。現代川柳には初めから「私」がいないのであって、消し残された「私」が表れるのではない。それゆえに現代川柳は壊喩を成立させ独自性を編み出した。そして同時に、全体文学への課題が残されたのである。

 現代川柳の作者は「何にでもなれる私」という巨大な「私」像のイメージを持てるか。あるいは、それを持たないことで現代川柳の独自性及び詩性は保たれるのだろうか。論者は未だそれについて結論を持っていない。ただ一つ直感するのは、現代川柳が内面の文学であるならば現代短歌は内面化の文学であるということ。そして現代川柳から現代短歌への横断によって全体文学への道は一つ拓けるのではないか、ということである。「無私」から「滅私」への書き換えは現代文学の新たな可能性を今一度拓くのではないだろうか。

 

 結論

 河野春三『現代川柳への理解』(天馬 一九六二年八月)では、「現代川柳は詩である」と題して、短詩の叙情と未来について次のように述べられている。

 

 今日、私達が作つているところの現代川柳は、それが当初実践せられて来た過渡的な革新川柳(進歩性のある川柳といいかえてもよい)に比して、きわめて非抒情的であり、ある場合は非情そのものであるということは指摘されよう。いわゆる抒情性というものは、現代詩が歩んだ道と同じく、ますます希薄になつてゆくことと思われる。抒情の詩から思考の詩へと推移してゆくことは現代詩も現代短歌も現代俳句も同じ過程を辿つていることは否定出来ない事実である。抽象俳句のドライ性などは到底俳句の従来の抒情性の寸度をもつて計ることは不可能であろう。

 然し、それでも尚且つ短詩は、抒情詩であり、従来の抒情とは違つたあり方に於て、抒情詩であると私は考える。それは抒情の変革ということにしぼつて考えられる性質のもので、抒情の質がかわつたということなのである。

 従来のような直接感情に訴える、流れる抒情というものは次第に変革されて、一見非抒情と見られる中に新しい秩序の抒情を見出さなければならない。

 俳句や川柳のような短詩においては、今後どのような抒情の質の変革が行われるにしろ、究極に於て抒情詩としての要素が失われることはないし、また失われたとしたらそれは詩としての光輝を失つたということになる。

 私達の思考が新しい秩序における抒情へ昇華することなしには、短詩としての生命はあり得ない。私達川柳の革新を志すものは、川柳が「詩」であるという明瞭な事実を認識するかぎりに於て、川柳非詩の立場と対立しなければならない。(32)

 

 先の柳本の記述のように現時点における現代川柳が「感想」や「認知」=内面の文学であることと河野の「抒情の詩から思考の詩へ」という認識を踏まえると、川柳の歴史は今ここに来て「抒情の詩」へと回帰したと見ることができる。もちろん、河野の言うように現在の抒情と当時の抒情は質を異にするだろう(事実、もはや現代川柳は「私性」即「詩性」とは言えない位置にある)。だが、確実に言えるのは現代川柳は河野の想像通り抒情詩としての要素を失っておらず、またその革新は成されたということである。そして、ここに至ってようやく、川柳は寺山がかつて期待した「落書の精神」を持ち得たのではないだろうか。

 寺山修司はなぜ川柳を書かなかったのか。それは、第一に寺山が晩年に至ってから「滅私」に注目したという点が挙げられるだろう。次に、寺山が期待する全体文学の可能性――落書きの無私性を、当時の川柳が獲得する過程にあったからだと考えられる。もしくは、隣接する俳句という形式へのこだわりが川柳に触れることを許さなかったのかもしれない。ただ言えるのは、現代川柳は「壊喩」という特性を獲得することで、短歌への横断可能性そして寺山が目指した全体文学への道筋の一つを指し示したということである。

 では、現代川柳はここからどこへ進むのだろうか。論者が考えるに現代川柳の課題は、「私は何にでもなれる」「あなたが誰でもかまわない」という本来ならばありとあらゆる者を包括できるはずの性質が、かつての川柳ほどの大衆性を獲得するには至っていないという点にある。これは無私性を獲得するために「感想」「認知」をそのまま提示するという手法に至り、反動として作品に難解さが生じてしまったことに原因があるのではないだろうか。もちろんそれは現代人の多くが文学的感性を失いつつあることにも起因するだろうが、それは暮田や柳本のように現代川柳を解読する論客がさらに増えてゆくことに期待する。そしてまた、現代川柳は共同体への批判を踏まえた上でかつての川柳における大衆性や人情を見直すことになるかもしれない。

 つまり、現代川柳はやがて大衆性へと回帰するのではないか、というのが論者の見立てである。これは論者が歌人であるがゆえの無責任な傍観者的考えかもしれない。だが、全ての人間が流行歌を口ずさむように難解な川柳を創作するという未来は、人々の精神をある閉塞感から解放するのではないだろうか(これは、今夏に暮田真名と公認心理師の松岡宮が「心理師(士)×川柳」のイベントを開催するらしいことと無関係ではあるまい)。

 本論では寺山修司はなぜ川柳を書かなかったのかという問いから、寺山修司の川柳批判を見直し、現代川柳の横断可能性について論じた。その過程で現代川柳に関する論や川柳史に関する資料を十分に調査したとは言えない。また、川柳と短歌の両方を書く作家として瀬戸夏子や平岡直子の作品を取り上げたかったが、こちらも十分な調査に至れなかったため今後の課題としたい。

 最後にふと思い出したのだが、論者が落書きと出会ったときの話をしたい。それは二〇一七年七月八日、祖父を亡くした翌日のことである。論者は湯灌の儀よりも好きなアーティストのライブを優先し、足立区から千葉県市原市へと向かっていた。道中、新木場駅にてトイレに立ち寄ると、小便器の壁に黒くハッキリとした字で次のように書かれていた。

 

 安倍晋三サリンを撒いた

 

 時は「共謀罪」改め「テロ等準備罪」を新設した改正組織犯罪処罰法が成立した直後のことだ。またモリカケ問題の渦中でもあり、国民の自民党に対する不信感が募っていた時期である。この落書きの内容は当然デマであるが、奇しくも七七定型のこの落書きを新木場駅のトイレに残した何者かの切実さを、論者は感じ取らずにはいられなかった。そして後日、論者は次の短歌を書き残した。

 

新木場の駅のトイレの落書きの「安倍晋三サリンを撒いた」(33)

 

 今こうして見ると、落書きを残した何者かの切実さ、そして覚悟を引き受けず「あくまでも他人のものですよ」とでも言うような言い訳臭い書きぶりだ。今の論者ならば、少なくとも次のような書き方になるだろう。

 

 安倍晋三サリン撒かれし国民の怒り黄色き小便となり

 

 落書きの無私性には、一つ「責任を回避」するという消極的な理由があると考えられる。それは現代で言えばSNSの匿名性に近い。匿名が当たり前となり言葉が軽くなった時代においては、署名の価値について一度見つめ直す必要もあるだろう(無論、二次加害等から免れるために匿名で被害告発などを行う場合も非常に多く、そういった匿名を余儀なくされた人々のことも無視してはならない)。

 そしてこのような文章を書く際に一人称を「私」ではなく「論者」と書きたがるのは、果たして「無私」の精神なのかそれとも「滅私」の精神なのか。いずれにせよ、(行為や思想の是非は置くとして)尖閣諸島中国漁船衝突事件の映像をYoutubeへ流出させた「sengoku38」氏ほどの覚悟を持てぬのであれば、こういった回想や反省も消されるべき「私」の断片に過ぎないのかもしれない。

 

 

〈注〉

(1)禰覇凌也「横断文学者寺山修司の試み~俳句と短歌の統合に向けて~」日本大学大学院芸術学研究科博士論文(二〇二一年三月)※「禰覇凌也」は二三川練の別名義

(2)暮田真名「暮田真名の活動と制作物、やってみたいお仕事」(note 二〇二二年一月三十一日)https://note.com/kuredakinenbi/n/n39a8fccd7e5e(参照二〇二二年五月三日)

(3)寺山修司寺山修司の俳句入門』(光文社 二〇〇六年九月)一句目は三五三頁、二句目は三五五頁

(4)寺山修司『ロミイの代辯 寺山修司単行本未収録作品集』(幻戯書房 二〇一八年五月)十四頁~十五頁

(5)福田若之「〔ためしがき〕寺山修司にとっての川柳」(ウラハイ = 裏「週刊俳句」 二〇一五年三月三十一日)http://hw02.blogspot.com/2015/03/(参照二〇二二年五月四日)

(6)寺山修司寺山修司の俳句入門』(光文社 二〇〇六年九月)四十九頁

(7)同四九頁~五〇頁

(8)同五〇頁

(9)寺山修司『ロミイの代辯 寺山修司単行本未収録作品集』(幻戯書房 二〇一八年五月)十六頁

(10)寺山修司寺山修司の俳句入門』(光文社 二〇〇六年九月)五〇~五一頁

(11)同五七~五八頁

(12)寺山修司『ロミイの代辯 寺山修司単行本未収録作品集』(幻戯書房 二〇一八年五月)十六頁

(13)寺山修司寺山修司の俳句入門』(光文社 二〇〇六年九月)一五四~一五六頁

(14)小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房 二〇二〇年十月)三〇一頁

(15)同一九三頁

(16)小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房 二〇二〇年十月)一九四頁

(17)寺山修司寺山修司全歌集』第十四刷(講談社 二〇二〇年十月)

(18)「チェホフ祭」の表記は、初出雑誌の表題は小字の「ェ」であり短歌中では「チエホフ」と並字の「エ」で表記されている。本論もこの表記に従う。

(19)小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房 二〇二〇年十月)一九五頁

(20)寺山修司寺山修司の俳句入門』(光文社 二〇〇六年九月)三五五頁

(21)寺山修司『遊撃とその誇り』(三一書房 一九九一年九月)一六三~一六四頁

(22)同一七四頁

(23)「國文學―解釈と教材の研究―」(学燈社 一九八三年二月)七頁

(24)同十四頁

(25)宗田安正「書けば書くほど恋しくなる――寺山修司の俳句」寺山修司寺山修司俳句全集』(新書館 一九八六年十月)

(26)「國文学―解釈と教材の研究―」(学燈社 一九七七年二月)七五頁

(27)暮田真名「川柳は(あなたが思っているよりも)おもしろい」(note 二〇二二年五月三日)https://note.com/sayusha/n/n314331e4c333(参照二〇二二年五月八日)

(28)「あなたが誰でもかまわない川柳入門(講師:暮田真名)全4回」(UNICOCO 二〇二二年二月十八日)https://unicoco.co/935/(参照二〇二二年五月八日)

(29)寺山修司『遊撃とその誇り』(三一書房 一九九一年九月)一六四頁

(30)小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房 二〇二〇年十月)一句目から十六頁、三八頁、二二八頁、二四五頁

(31)柳本々々「でも川柳だと信じてる」「現代詩手帖」(思潮社 二〇二一年十月号)一〇四~一〇七頁

(32)河野春三『現代川柳への理解』(天馬 一九六二年八月)二九~三十頁

(33)二三川練『惑星ジンタ』(書肆侃侃房 二〇一八年十二月)一〇八頁

 

 〈参考文献〉

  書籍

河野春三『現代川柳への理解』(天馬 一九六二年八月)

寺山修司寺山修司俳句全集』(新書館 一九八六年十月)

寺山修司『遊撃とその誇り』(三一書房 一九九一年九月)

寺山修司寺山修司の俳句入門』(光文社 二〇〇六年九月)

寺山修司『ロミイの代辯 寺山修司単行本未収録作品集』(幻戯書房 二〇一八年五月)

二三川練『惑星ジンタ』(書肆侃侃房 二〇一八年十二月)

小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房 二〇二〇年十月)

 

  記事・論文

寺山修司「個への退行を断ち切る歌稿 一首の消し方」「國文學―解釈と教材の研究―」(学燈社 一九七七年二月)

座談会「歌の伝統とは何か」「國文學―解釈と教材の研究―」(学燈社 一九八三年二月)

禰覇凌也「横断文学者寺山修司の試み~俳句と短歌の統合に向けて~」日本大学大学院芸術学研究科博士論文(二〇二一年三月)

柳本々々「でも川柳だと信じてる」「現代詩手帖」(思潮社 二〇二一年十月号)

 

  WEBサイト

福田若之「〔ためしがき〕寺山修司にとっての川柳」(ウラハイ = 裏「週刊俳句」 二〇一五年三月三十一日)http://hw02.blogspot.com/2015/03/(参照二〇二二年五月四日)

「あなたが誰でもかまわない川柳入門(講師:暮田真名)全4回」(UNICOCO 二〇二二年二月十八日)https://unicoco.co/935/(参照二〇二二年五月八日)

暮田真名「暮田真名の活動と制作物、やってみたいお仕事」(note 二〇二二年一月三十一日)https://note.com/kuredakinenbi/n/n39a8fccd7e5e(参照二〇二二年五月三日)

暮田真名「川柳は(あなたが思っているよりも)おもしろい」(note 二〇二二年五月三日)https://note.com/sayusha/n/n314331e4c333(参照二〇二二年五月八日)

 

 

※論注、川合大祐さんの表記が間違っていたため訂正致しました。大変申し訳ございません。また、「表れる」と「顕れる」の表記ゆれがあったため「表れる」に統一致しました。大変失礼致しました。(2022年6月5日)

歌壇賞2021応募連作

  血          二三川練

 

人の血と蚊の血混ざりて手のひらは風穴のごと濡れていたるを

 

射殺せよか細き鹿を嬲る手と嫐らるる手のやわらかき肉

 

此の世の樹わが足跡(そくせき)に生えたれば麒麟はにがき林檎を齧る

 

無防備な頸をさらせり缶ジュース最後の一滴まで飲みほして

 

太陽に白くなりたる背表紙のならびておればほの暗きかな

 

稚さよ 胸の裡にはとどかねどコルクボールを蹴りあう帰路よ

 

天道虫つめたしわれの手のひらを握られながら這いでるものを

 

完全な人になりたし煤煙は海へとのびて海をわたらず

 

人間を殴れど割れぬ酒瓶のゆえなき哀しみなどとささやき

 

字にあらぬ雁の群れ宙空をよぎるわれらを見透かしもせず

 

人の種を絶滅せしめミアキスは冴ゆる小川に牙を洗いぬ

 

墜ちながら死せる仔雀その死屍を刺せよバベルのごときヒールよ

 

涜すことは慰さむること骨の手に性器は曲がるほど握られて

 

何がため勃てる中指空色の爪にかぶされたるフィンドムは

 

(女なら)誰でもよかったまひるまのテレビにかくも光る包丁

 

《女には分からぬ世界》拡がりて空の玉座の赤き背もたれ

 

生き人の肉かきわけてある顔のくちづけすれば微笑みたるを

 

わが皮膚を着るならば犬なまぬるき舌に水蜜桃ほころびぬ

 

領土のごとく性感帯は拡がりぬわが身は誰の贄となるらん

 

こわれやすき犬 こわれたる犬 隙間を抜けてゆくヒーリーズ

 

共感の先を語れぬ非力さの夕陽に紅く燃ゆる群衆

 

くれないの天より生うる百日紅陽光こぼれおちてさみしえ

 

悦びが自死にあるらしバサバサと欅の道は時雨ていたり

 

カレンダーめくられぬゆえ一生を言祝がれたるわが誕生日

 

水槽を紙のごとくに揺らめけるネオンテトラはうすく光りて

 

月の香のなおうつくしきわれのため死なねばならぬ猫抱きて去る

 

浴室に脚ほそながき蜘蛛のいてぬるきシャワーは追いつめにけり

 

踊る 皮膚のない指で 生まれすぎた猫を絞め殺して

 

初雪のヨットのごとき騎乗位のしずかなる部屋しずかなる朝

 

シリコンの冷ゆる乳房にうずもれてどうして泣くんだろう人間が

【一句評】あるだけのタオルを積んで夜の底/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)

あるだけのタオルを積んで夜の底/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂

 

 積めば積むほどタオルは上へ昇ってゆく。しかし到達点は上ではなく「底」である。「夜の底」は底知れない夜の闇を表現する言葉であり、この句では情景描写と言葉遊びとが両立している。
 様々な短歌に触れていると、客観的に見ればなんの意味も持たないような行為が主体にとって深い祈りの意味を持つというある種のパターンを知ることになる。この句の「あるだけのタオルを積んで」という行為もそのパターンに含めることができる。ポイントは「あるだけの」という表現である。バスタオルやハンドタオル、様々なタオルを家のなかからかき集めて積んでいく。もちろん畳んで積むだろうから、かさばるしバランスも悪くなるだろう。その不安定さがまさに心情の暗喩となっているのだ。今にも崩れそうなタオルの塔を前にして夜はなおも更けていく。そこには底知れない哀しみがある。

【一句評】練り菓子へ無政府主義がなつかしい/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)

練り菓子へ無政府主義がなつかしい/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂

 

 「練り菓子」という甘くて安い物に「無政府主義」という硬質な物を取り合わせるのが面白い。また、この政治的な言葉に対して「なつかしい」という肯定も否定もしない言葉をつけることで、その価値判断を無化できるというのも川柳という詩型独特の力だろう。それは言葉、概念を人間の手から放すことで宙吊りの状態にするということだ。つまり、俳句的な即物性を物体ではなく概念で行うのである。この不安定、ある意味での不安感が川柳という詩型の面白みの一つだ。これもまた、付句を喪失した原初の体験が由来しているように思える。
 ちなみに、この句のもう一つのポイントは「へ」である。この「へ」で句切れを挿入すれば、「練り菓子」に向けて中七下五の言葉を告げた読みができる。しかし、やはり川柳ゆえここで句切れを挿入せずに読むほうが面白い。ここで「へ」が文法的に不安定になることで、この句がさらに不安定で不安なものになる。概念も文法も手放しながら、それでも霧散するモダニズムと化さないのは作者の力量ゆえのことだろう。

【一句評】遮断機の手前は暑い秋でした/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)

遮断機の手前は暑い秋でした/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂

 

 遮断機や踏切は短歌でも境界の象徴として見ることの多いアイテムだ。たいてい境界が出てくる際はその手前と奥、つまりは「こちら側」と「あちら側」の対比が描かれるように思える。言い換えれば、彼岸と此岸である。
 この句においては遮断機の「手前」が「暑い秋」である。たしかに最近は秋でも暑い日が続くが、それでも字面に違和感がある。秋なのに暑い。暑いのに秋。そもそも気温変動などが生じ四季の変化が異様である昨今、何をもって四季を同定するのだろうか。たしかに実感はあるが言葉にすればすこしおかしい「暑い秋」は「手前」、すなわち「こちら側」にあるのだ。こちらの世界はもうおかしくなってしまった。では、遮断機の向こうには何があるのだろうか。私たちが失ってしまった涼しい秋だろうか。それとも、来たるべき暑い冬だろうか。

【一句評】暗がりに連れていったら泣く日本/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)

暗がりに連れていったら泣く日本/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂

 

 シンプルなユーモア川柳と言えるだろう。ここでの「日本」は子どものように幼く、心細い。当然時事句でもある。面白いのは、この句の主体が「日本」を「連れていった」ことである。本来は国=政治の動きに国民が連れて行かれるという構造がここでは逆転し、主体が「日本」という国を先導する存在となっている。
 時事句、というより日本という国への評価としてこの句を読み解くと実に批評的である。「暗がりに連れていったら泣く」ということは、普段は陽の当たる場所にいるのだろう。さらに、そこでは少なくとも泣いていない。日本のことだからなんなら威張っているのかもしれない。だが、ひとたび「暗がり」に連れて行ってしまえば日本は泣き出す。表では強気なようでも、その背後には不安、脆弱さを抱えているのだ。もはや先進国とは言えなくなってしまったこの国の、それでも自身が先進国だと信じようとする姿を端的に言い表しているようだ。しかし、遺憾ながら泣きを見るのは小市民やマイノリティばかりである。いずれは、陽の当たる場所にいる者たちにも泣きを見せたいものだ。