灰の森通信

二三川練の感想ブログ

【一句評】勝ち負けでいうなら月は赤いはず/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)

勝ち負けでいうなら月は赤いはず/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂

 

 「勝ち負けでいうなら」と言っておきながら「勝ち」でも「負け」でもなく「赤いはず」という結論が出ている。「赤い月」といえばなかにし礼に同名の小説があるが、その他多くの漫画作品などで不吉の象徴(またはヴァンパイアの象徴)として見ることが多い。その「赤い」状態が本来の姿だとこの句は主張しているのだ。
 この句は「いうなら/月は」と句切れが挿入されているが「なら」が接続詞であるため非常に薄い。これにより起こる意味的なねじれがこの句の面白さだ。「勝ち負けでいうなら」と前置きしている以上は「月は赤い」という状態もまた「勝ち負け」のどちらかなのかもしれない。しかし、読者がそれを判定することは不可能である。すると、「勝ち負けでいうなら」というある種の常套句への疑念が生まれる。そもそも「勝ち負け」で何かを判定するという、その価値観自体への批判としてこの句が機能しているのだ。「勝ち負け」で判断するという、その価値観が是であるならば「月は赤いはず」なのだ。
 もちろんそこまで論理的な句として読む必要は無い。だが、「勝ち負け」で言おうとしたところで、その価値観で捉えようとしたところで「勝ち」でも「負け」でも言い表せないものの方がこの世には多い。それは確かなことだ。

【一句評】なりゆきで寂しくなった楕円形/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)

なりゆきで寂しくなった楕円形/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂

 

 寂しくなったのはこの楕円形だけだろうか。それとも、全ての楕円形は実は寂しかったのだろうか。僕は後者の読みを選びたい。言われてみれば楕円形とはどこか寂しい形のような気がする。整った形だというのに真円を押しつぶしたような歪みが感じられる。この「真円を押しつぶした」というのが「なりゆき」だろうか。いや、そうとも限らない。この「寂しくなった」というのは形の話ではなく、楕円形の自我の話かもしれない。「寂しい」という情緒に「楕円形」という歪ながらも整った幾何学の存在を取り合わせるのは非常に面白い。寂しさの由縁を「なりゆき」とだけ記すのもちょうどいい塩梅の余白と言えるだろう。
 川柳の余白は、付句への志向と言い換えてもいいかもしれない。もちろん作品にもよるだろうが、この句は読めば読むほど七七を付けたくなってくる。川柳はそれ自体独立した形式であるが、その発祥を考えれば付句をつけたくなるのも当然かもしれない。

 


 なりゆきで寂しくなった楕円形  樋口由紀子
  一直線にならぶ惑星      二三川練

 

 なりゆきで寂しくなった楕円形  樋口由紀子
  ひとりひとりに蜜柑手わたす  二三川練

 

【一句評】前の世は鹿のにおいがしたという/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂)

前の世は鹿のにおいがしたという/樋口由紀子『めるくまーる』(二〇一八年十一月 ふらんす堂

 

 前世の話をする際、「前世の私は◯◯だった」という自身の状況について話すことは多いだろう。しかしこの句では「鹿のにおいがした」という全盛の「私」がいた世界についての描写になっている。しかも「という」という伝聞調である。ここから「前の世」の話をしているのは他者と考えることもできるが、僕はこれを前世の「私」から聞いているのだと読みたい。今生の「私」が前世の「私」からその頃のことを聞いているのだ。
 またこの句の大きなポイントは「鹿のにおい」である。鹿のにおいとはどんなにおいだろう。鹿は牛や馬ほど人間と近くなく、虎やライオンほど遠くもない動物だ。草食動物である鹿のにおいは、きっと自然界を暗示するにおいをさせていることだろう。自然の、そして神聖なにおい。「前の世」は想像するよりも遥か昔の時代なのかもしれない。対して今の世はどのようなにおいがするのだろうか。

 

 余談。僕は川柳の初心者であるが連句の経験は合計して三~四年はあると思うので平句として考えればもう初心者を名乗るべきではないのかもしれない。平句から独立した川柳は前句と付句を喪失することで初めて自らの切れ――独立性と完結性を獲得したのかもしれない。一方で、独立せず完結しない、前句と付句のにおいを残すことで独立と完結を為した句もあるだろう。浅学ではあるが、今月の一句評を通して川柳と切れの問題にも目を向けていきたいと思う。

【一首評】スタジオの裏で飼ってた猫が嚙む何の肉でもないような肉/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

スタジオの裏で飼ってた猫が嚙む何の肉でもないような肉/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

 

 連作「Twin Reverb」より。句切れは「嚙む/何の」の一箇所に薄く。連作名はギターアンプの名前らしく、「スタジオ」とはバンドの練習をするスタジオのことだろう。この連作には他にも「ギターケース」や「ピック」が散見される。ちなみにギターの所持者は連作を読む限り「あなた」のようだ。
 「スタジオ」は多くの場合はレンタルスペースのような場所を借りるのではないかと思う。所有ではなくレンタルのスタジオの裏で所有を示す「飼ってた」という表現を使う点が面白い。この猫はまた別の日には別の人に「飼われて」いるのかもしれない。もしくは「スタジオの裏」を定位置として毎日餌をやりに来ているのかもしれないが、個人的には先の読みの方が面白く読める。
 下の句は「なんでもないような肉」ではなく「何の肉でもないような肉」という表現が餌の生々しさと不気味さを駆り立てる。調べてみたところキャットフードに使用される肉類は牛、豚、羊、うさぎ、鹿、鶏、七面鳥など多岐に渡り、魚類ではまぐろ、かつお、サーモン、あじ、いわし、タイなどが含まれるらしい。キャットフードこれらの混合物だとしたら、たしかにもはや「何の肉でもない」と言えるだろう。あらゆる肉を網羅しているがゆえに何か特定の肉ではなくなってしまう、存在の揺らぎを捉えた表現だ。そして室内猫ではなく「スタジオの裏」で飼うことで野生性を帯びている猫が、このような人工的な餌を摂取するというのも一つの歪な世界観である。この歪さが既に自然になっている猫と、そこに違和感や不気味さを見る人間との対比すら感じられる一首である。人間の介入すらも自然界の変容の内と捉えるならば本来違和感を抱くべきことではないのかもしれないが、しかし自然界に罪悪感を抱くときに人は人足り得るのかもしれない。

 

 

藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)一首評は以上となります。ありがとうございました。

 

 

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【一首評】鍋底の殻の割れ目のびゅるびゅると溢れる白身 生きていたこと/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

鍋底の殻の割れ目のびゅるびゅると溢れる白身 生きていたこと/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

 

 連作「天才じゃなくても好き」より。句切れは全角スペースの一箇所。

 ゆで卵を作る際、鍋に入れた卵の殻が割れ、白身が「びゅるびゅる」と溢れることがある。語順の操作により、卵であることを推測させながら「白身」まで読むことでようやく卵であることが明らかになる点に読み応えがある。その上の句に「生きていたこと」という下の句をあてることで、上の句の「びゅるびゅる」に生命の残滓を感じさせ、そのグロテスクさを実感させる。またこの歌の二首前には「ともだちが生き返るよりわたしが死ぬほうがはやいか 牛乳198円(いちきゅっぱ)の日」が置かれており、「生きていたこと」が友人も指しているとわかる。死はグロテスクに、そしてやがて死を迎える生命もグロテスクに陰鬱に描くのがこの歌集の特徴と言えよう。

 ところで、「卵」に生命や死の暗示を見る短歌は割に多い気がする。ただ、そのなかで卵が無精卵であることに言及している短歌はどれだけあるのだろうか。画像を見たくないため調べることもできないが、どこかの国では少しだけ育った有精卵を食べるという話も聞いたことがある。より正確に生と死の混在を望むならばそれがふさわしいであろうが、日本人として生きてきたことが前提となるならばたとえ無精卵であっても「卵」で問題ないだろう。この「びゅるびゅると溢れ」てきたのがどろどろのひよこでなくてよかったと思う。

【一首評】吐瀉物でひかるくちびるいつの日かわたしを産んで まだ死なないで/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

吐瀉物でひかるくちびるいつの日かわたしを産んで まだ死なないで/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

 

 連作「Splitting of the Breast」より。このタイトルは心理学用語で「乳房の分裂」を意味するようだ。赤ん坊が自分を満足させてくれる親の側面と満足させてくれない親の側面とを一つの個人に統合できないことに由来するらしい。エヴァンゲリオンのアニメシリーズにて「Splitting of the Breast」が副題に置かれた回もあるようだが、連作とエヴァンゲリオンとの関連は私の知識では見ることができなかった。句切れは「くちびる/いつの日か」と全角スペースの二箇所。対比が光る一首だ。

 まず、この歌では吐瀉しているくちびるを見て「わたしを産んで」という心情吐露が発生する。吐瀉物は様々な生物の死骸を人体の上から吐き出すものであり、出産は生命を人体の下から吐き出す行為である。これが並ぶことで歌のなかで上下の対比が生まれるだけでなく、死んでいる吐瀉物と生きている「わたし」の対比と同一化が為されるのだ。

 さらにこの歌はそこから「まだ死なないで」へと転ずる。「産む」という生の営みから自然と死が連想されているのだ。この願望はエゴイスティックなものでありながら、その理由に「わたしを産んで」というおよそ不可能な願いを置くことで切実なエゴへと昇華されている。嘔吐に苦しむ相手の身体と「わたし」の心の苦しみがシンクロするような一首である。

【一首評】水槽の匂いの駅に気づくときわたしまみれのわたしのまわり/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

水槽の匂いの駅に気づくときわたしまみれのわたしのまわり/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

 

 連作「八月三十二日」より。夏休みの幻の続きを表すかのような連作タイトルである。この一首は細かい修辞が特徴的であり目を引いた。

 まず「駅の水槽の匂い」ではなく「水槽の匂いの駅」とすることで「気づく」の対象が「匂い」と「駅」に分散され、嗅覚と視覚の共感覚的表現となっている。また、「水槽の匂い」とは水槽そのものではなくそこにあった水や草、そして生物たちの残滓の匂いである。生命の残滓は死のイメージを喚起する。そして「駅」と「水槽」が箱型の物体という共通点を持つことで、そこに行き交う人々に水槽の魚という暗喩が付与される。語順と暗喩の妙が光る上の句である。

 そして下の句は音と意味の面白さが両立している。音の面白さについては言うまでもないが、「わたしのまわり」が「わたしまみれ」というのは身体を拡張する表現でもあるし、逆に精神的な閉塞感を表現してもいる。重要なのは「まみれ」という表現である。ネガティブなニュアンスも強く持つこの表現を用いることで、下の句の感傷に幅が生まれているのだ。

 ともすれば抽象的に過ぎてしまうようなこの一首は、細かく行き渡った修辞の妙によって詩的強度を保っている。上の句と下の句で異なる手法を用いている点もバランスが良い。完成度の高さで言えばこの歌集で最も良い歌ではないだろうか。