灰の森通信

二三川練の感想ブログ

【一首評】スタジオの裏で飼ってた猫が嚙む何の肉でもないような肉/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

スタジオの裏で飼ってた猫が嚙む何の肉でもないような肉/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

 

 連作「Twin Reverb」より。句切れは「嚙む/何の」の一箇所に薄く。連作名はギターアンプの名前らしく、「スタジオ」とはバンドの練習をするスタジオのことだろう。この連作には他にも「ギターケース」や「ピック」が散見される。ちなみにギターの所持者は連作を読む限り「あなた」のようだ。
 「スタジオ」は多くの場合はレンタルスペースのような場所を借りるのではないかと思う。所有ではなくレンタルのスタジオの裏で所有を示す「飼ってた」という表現を使う点が面白い。この猫はまた別の日には別の人に「飼われて」いるのかもしれない。もしくは「スタジオの裏」を定位置として毎日餌をやりに来ているのかもしれないが、個人的には先の読みの方が面白く読める。
 下の句は「なんでもないような肉」ではなく「何の肉でもないような肉」という表現が餌の生々しさと不気味さを駆り立てる。調べてみたところキャットフードに使用される肉類は牛、豚、羊、うさぎ、鹿、鶏、七面鳥など多岐に渡り、魚類ではまぐろ、かつお、サーモン、あじ、いわし、タイなどが含まれるらしい。キャットフードこれらの混合物だとしたら、たしかにもはや「何の肉でもない」と言えるだろう。あらゆる肉を網羅しているがゆえに何か特定の肉ではなくなってしまう、存在の揺らぎを捉えた表現だ。そして室内猫ではなく「スタジオの裏」で飼うことで野生性を帯びている猫が、このような人工的な餌を摂取するというのも一つの歪な世界観である。この歪さが既に自然になっている猫と、そこに違和感や不気味さを見る人間との対比すら感じられる一首である。人間の介入すらも自然界の変容の内と捉えるならば本来違和感を抱くべきことではないのかもしれないが、しかし自然界に罪悪感を抱くときに人は人足り得るのかもしれない。

 

 

藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)一首評は以上となります。ありがとうございました。

 

 

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【一首評】鍋底の殻の割れ目のびゅるびゅると溢れる白身 生きていたこと/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

鍋底の殻の割れ目のびゅるびゅると溢れる白身 生きていたこと/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

 

 連作「天才じゃなくても好き」より。句切れは全角スペースの一箇所。

 ゆで卵を作る際、鍋に入れた卵の殻が割れ、白身が「びゅるびゅる」と溢れることがある。語順の操作により、卵であることを推測させながら「白身」まで読むことでようやく卵であることが明らかになる点に読み応えがある。その上の句に「生きていたこと」という下の句をあてることで、上の句の「びゅるびゅる」に生命の残滓を感じさせ、そのグロテスクさを実感させる。またこの歌の二首前には「ともだちが生き返るよりわたしが死ぬほうがはやいか 牛乳198円(いちきゅっぱ)の日」が置かれており、「生きていたこと」が友人も指しているとわかる。死はグロテスクに、そしてやがて死を迎える生命もグロテスクに陰鬱に描くのがこの歌集の特徴と言えよう。

 ところで、「卵」に生命や死の暗示を見る短歌は割に多い気がする。ただ、そのなかで卵が無精卵であることに言及している短歌はどれだけあるのだろうか。画像を見たくないため調べることもできないが、どこかの国では少しだけ育った有精卵を食べるという話も聞いたことがある。より正確に生と死の混在を望むならばそれがふさわしいであろうが、日本人として生きてきたことが前提となるならばたとえ無精卵であっても「卵」で問題ないだろう。この「びゅるびゅると溢れ」てきたのがどろどろのひよこでなくてよかったと思う。

【一首評】吐瀉物でひかるくちびるいつの日かわたしを産んで まだ死なないで/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

吐瀉物でひかるくちびるいつの日かわたしを産んで まだ死なないで/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

 

 連作「Splitting of the Breast」より。このタイトルは心理学用語で「乳房の分裂」を意味するようだ。赤ん坊が自分を満足させてくれる親の側面と満足させてくれない親の側面とを一つの個人に統合できないことに由来するらしい。エヴァンゲリオンのアニメシリーズにて「Splitting of the Breast」が副題に置かれた回もあるようだが、連作とエヴァンゲリオンとの関連は私の知識では見ることができなかった。句切れは「くちびる/いつの日か」と全角スペースの二箇所。対比が光る一首だ。

 まず、この歌では吐瀉しているくちびるを見て「わたしを産んで」という心情吐露が発生する。吐瀉物は様々な生物の死骸を人体の上から吐き出すものであり、出産は生命を人体の下から吐き出す行為である。これが並ぶことで歌のなかで上下の対比が生まれるだけでなく、死んでいる吐瀉物と生きている「わたし」の対比と同一化が為されるのだ。

 さらにこの歌はそこから「まだ死なないで」へと転ずる。「産む」という生の営みから自然と死が連想されているのだ。この願望はエゴイスティックなものでありながら、その理由に「わたしを産んで」というおよそ不可能な願いを置くことで切実なエゴへと昇華されている。嘔吐に苦しむ相手の身体と「わたし」の心の苦しみがシンクロするような一首である。

【一首評】水槽の匂いの駅に気づくときわたしまみれのわたしのまわり/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

水槽の匂いの駅に気づくときわたしまみれのわたしのまわり/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

 

 連作「八月三十二日」より。夏休みの幻の続きを表すかのような連作タイトルである。この一首は細かい修辞が特徴的であり目を引いた。

 まず「駅の水槽の匂い」ではなく「水槽の匂いの駅」とすることで「気づく」の対象が「匂い」と「駅」に分散され、嗅覚と視覚の共感覚的表現となっている。また、「水槽の匂い」とは水槽そのものではなくそこにあった水や草、そして生物たちの残滓の匂いである。生命の残滓は死のイメージを喚起する。そして「駅」と「水槽」が箱型の物体という共通点を持つことで、そこに行き交う人々に水槽の魚という暗喩が付与される。語順と暗喩の妙が光る上の句である。

 そして下の句は音と意味の面白さが両立している。音の面白さについては言うまでもないが、「わたしのまわり」が「わたしまみれ」というのは身体を拡張する表現でもあるし、逆に精神的な閉塞感を表現してもいる。重要なのは「まみれ」という表現である。ネガティブなニュアンスも強く持つこの表現を用いることで、下の句の感傷に幅が生まれているのだ。

 ともすれば抽象的に過ぎてしまうようなこの一首は、細かく行き渡った修辞の妙によって詩的強度を保っている。上の句と下の句で異なる手法を用いている点もバランスが良い。完成度の高さで言えばこの歌集で最も良い歌ではないだろうか。

【一首評】死後の町に回り続ける観覧車、音がなくなってたくさん笑う/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

死後の町に回り続ける観覧車、音がなくなってたくさん笑う/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

 

 連作「ハローワールド」より。句切れは読点の一箇所。読点の句切れは上の句と下の句を切りながらも散文的な繋がりを保持しようとするある種暴力的なレトリックである。私は普段こういった読点を使うことはないが、上の句と下の句を作者の望む距離に置くための手法として重要なものだ。

 「観覧車」は短歌において一定の詩情を生み出すアイテムとして重宝されている。この「観覧車」は「死後の町」に置かれているが、これは「死者たちの町」とも取れるし「滅びた町」とも取れる。死者たちを乗せる観覧車あるいは誰も乗せず誰からも忘れ去られた観覧車。この二通りの読みが発生することで、この歌のなかで彼岸と此岸が交差する。

 上の句の具象表現に対し下の句は具象度が少し下がる。「音がなくなってたくさん笑う」のは不思議と「わたし」と「きみ」の両名であるように思えた。もちろんそれは連作や歌集の流れを汲んだ読みであり、「わたし」一人の世界として読むことも十分可能である。だが、「音がなく」なるという感覚の欠落を共有することで「わたし」と「きみ」が初めてこの「観覧車」に乗れるという、けして叶わない夢想がここにはあるように思えるのだ。

【一首評】目覚めれば羽虫のような愛しさを閉じ込めたまま止めるアラーム/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

目覚めれば羽虫のような愛しさを閉じ込めたまま止めるアラーム/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

 

 連作「夏が終わったら起こしてね」より。はっきりとした句切れは見えず、それゆえに主客の転倒や主語の混濁が見られる。それらがこの一首の読み幅を広げ、「羽虫のような」という比喩にのみ頼らない詩情を生んでいる。

 「目覚めれば(中略)止めるアラーム」は、「(わたしが)目覚めれば(わたしが)止めるアラーム」という自己を俯瞰する読みと「(わたしが)目覚めれば(きみが)止めるアラーム」という主語が変わる読みができる。もちろんそこから「(きみが)目覚めれば(きみが)止めるアラーム」や「(きみが)目覚めれば(わたしが)止めるアラーム」とう読みも可能になる。この連作には「きみ」の存在が多く詠まれており、これらの読み方は十分に可能である。短歌という詩型において平行世界的な文法構築が一定の効果をあげることはもはや言うまでもない。特にこの歌では複数の読みがこ重ね合わさることで「わたし」と「きみ」との境界が崩れ、しかし「羽虫のような愛しさを閉じ込め」ることで現実には融合し得ない「わたし」と「きみ」の悲しみをも生み出している。まさに目覚めの混濁と覚醒が表現されたような一首である。

【一首評】生まれ変わったら台風になりたいねってそれからは溶ける氷をみてた/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

生まれ変わったら台風になりたいねってそれからは溶ける氷をみてた/藤宮若菜『まばたきで消えてゆく』(書肆侃侃房 二〇二一年六月)

 

 連作「夏が終わったら起こしてね」より。句切れは「なりたいねって/それからは」の一箇所。具象の薄い一首であるが不思議と印象に残った。短命ながらも激しい雨を降らし日本を横切っていく台風。その台風になりたいことを告げる上の句では、激しい感情を押し殺しながら今を生き、かつこれからも生きていくことになるであろう「わたし――たち」の諦念が見られる。そして台風とは対称的に氷は時間をかけて静かに滅んでゆく。この「みてた」には感情を押し殺した先の空虚がある。

 ところで、句切れの直後に「それからは」など時間の区切りを置く手法には不思議と見覚えがある気がする。例歌がすぐに思い浮かぶわけでもなく、なんなら最近自分が使った手法と偶然一致しただけかもしれないが。こういった手法は句切れでありながら接続詞で繋ぐことで、深い句切れでありながら前後の繋がりを否応なく保つことができる。時空間的な飛躍をわかりやすく行うことができるという点では開かれた手法であると言えるが、句切れを平易にするために接続詞分の字数を使うのは少々もったいない気持ちもある。果たして短歌読者にとって句切れはどこまで馴染んでいるのだろうか。